歌舞伎町のワインバー おぅ・ばん

「演歌の殿堂」と言われた歌舞伎町のコマ劇の跡地には、2015年に「新宿東宝ビル」が建てられた。3階から6階には「TOHOシネマズ新宿」が、9階から31階に「ホテルグレイスリー新宿」が入居しており、新たな人通りが生まれている。

ワインバー「おぅ・ばん」は、この旧コマ劇前のビルにある。

個人客中心のカウンター席である。厨房に隣接しており、ワインを飲みながら、シェフ兼オーナーの調理中の肉の焼き音が聞こえる。写真右のカウンターの上にあって、カウンター客を見つめる警察官の陶器は、何ともキュートである。

当店は「ブルゴーニュワイン」を中心に用意されている。

ブルゴーニュは、ボルドーと並ぶフランス、のみならず、世界のワイン2大生産地である。ピノ・ノワール、ガメイなど、限定されたブドウ品種のみ使用される。ボルドーよりも零細な醸造家が多いと言われている。

ピノ・ノワールで作られるワインは、ボルドーなどのカベルネ・ソーヴィニオンで作られるワインと比べて、タンニン分が少なく、比較的軽口な味わいが多い。ブドウが畑の影響を受けやすいと言われ、飲む毎に、異なった表情のワインを楽しむことが出来るかもしれない。



この店の一番のお薦めは、何と言っても、その日に仕入れた食材をもとに、シェフがその日の「お客とワインに合わせた料理」を作ることだ。

ワインをグラスで3杯飲み、料理を3皿くらい提供されて、概ね5,000円〜のお勘定である。

こちらは、鹿肉を、ネギとナスなどの野菜と炒めた料理。「おつまみ的に食べたい」という、筆者のリクエストに応えて、調理してくれたものである。鹿肉もさることながら、筆者は鹿肉の油と香りが染み込んだネギの味わいが印象的だった。ここでは、とにかく野菜を美味しく食べることが出来る。

鴨肉のロースト。当店の代表的な一皿である。何杯かワインを飲み終えたあとの、メインディッシュとして出されたものだ。ここで出される鴨肉は、特に赤ワインとの相性がよいように感じた。鴨肉が入荷されている際には、一度お試しされることをお薦めする。

窓際のテーブル席である。10月から11月にかけてのこの季節は、暑すぎず寒すぎず丁度心地よい。写真の日も秋雨だったが、気持ちが良かった。

窓からは、「新宿東宝ビル」を見ることができる。ビルの向こうから見えるのは、「ゴジラ」である。映画「シン・ゴジラ」上映に際して、靖国通りから旧コマ劇前に至る道路は「ゴジラロード」と名付けられた。日本一の繁華街にふさわしく、今日も大勢の人で賑わう。

平日は遅くまで営業している。歌舞伎町の飲み帰りに立ち寄るのもよし、場合によっては映画のレイトショーを観た後で始発まで店でゆっくりするのも、面白いかもしれない。

<営業時間、アクセス>

月~金…19:00~翌5:00
土…17:00~24:00(お客様がいらしたらいなくなるまで営業)
※注 毎週土曜日は乳幼児、お子様もOK、20時頃まで禁煙
日…休み

東京都新宿区歌舞伎町1-14-6 第21東京ビル9F

気楽にハイボールを飲みつつ、酒税の話少し


ハイボール、つまりウイスキーのソーダ割りの話である。

筆者は、努めて、バーなどでの注文時に「ハイボール」という呼び名は使用しない。可能な限りウィスキー銘柄名を出して、例えば、「リベットをソーダ割で」と伝える。ただし、日本では、既に一般名詞としての普及、浸透があることから、便宜のため、ここでは「ハイボール」で通す。

元々、筆者はハイボールなるものはほとんど飲まなかった。2008年にサントリーが火付け役になってブームになった際にも。しかし、時の経過ともに趣向が変わったのか、近頃飲む頻度が高まっている。場合や気分によっては、ビールの代わりに注文することもある。

「ウィスキー、特にシングルモルトはストレートで飲むべきだ」

よく語られ、よく耳にする「主張」ないしは「命題」である。確かに、シングルモルトが持つ、ピートや樽の微妙な香り、味わいなど、ストレート、ロック、あるいは若干の加水辺りまでで味わうのが、最も良さを引き出せると感じる。筆者自身もこの立場を変えていない。

しかし、ハイボールには、ハイボールの良さがある。ビールと比べて、ハイボールは口当たりが軽い印象だ。特に夏場には、散歩した後でいっぱい欲しいなと感じる際に、ビールよりも飲みやすいと感じる。カロリーなどがビールよりも低いのも、嬉しいところである。

流石に、ビールに代わる「一杯目の定番」とまでは認知されていない。使われるウィスキーにもよるが、特有の「香り」に抵抗感がある日本人はまだまだ多い。それでもハイボールを通して、「あ、ウィスキーはこんなものだったんだ〜」という具合に、「気付き」をもたらす効果は大きいと考える。徐々に飲まず嫌いが解消されて浸透していく気配もあり、当面は伸び代はあるのでは、と考えている。

ここで、ハイボールについて、「お金」に絡む話を。「酒税」についてである。


かつて中国では古代より、専売品への課税を行われてきた。塩、鉄、酒、時代を下ると茶が専売品とされ、統治者側の都合により税額が定められるものであった。日本では中世以降、「酒役」などの名称で酒屋への免許税の名目で課税が行われた。明治時代の日露戦争前後には、酒税が税収のトップを占めていた時期があった。

明治時代以降の日本では酒税は概ね、「和酒には低税率、洋酒には高税率」の傾向であった。洋酒は「贅沢品」と見做され、「贅沢品を飲む連中には高税率を(固く言うと『応能主義の原則』)」という観念だったのである。その後外圧もあり、昭和60年代以降からウィスキーなどに対する税率は段階的に軽減された。結果目立つようになったのは、ビールに対するアルコール度数あたりの酒税税率の高さである。



アルコール度数あたりの税額で考えると、ビールへの税額が突出しているのだ。現在、ビールの酒税対策として麦芽など原材料の比率を調整した発泡酒などが生産されている。発泡酒についてはビールよりも税率が軽減されているものの、段階的にビールと税率が統合されること(つまり現在より高税率へ移行すること)が発表されている。

かくもビールが「贅沢品である」との観念に、いつまでも支配されている状況である。それでも日本人は良くも悪くもおとなしい。声を大にして主張されることはまだまだ少ないと感じている。

かかる酒税体系の環境下で生じた、「ハイボール」の提案と普及は、酒税体系に対する一種の「反抗」である側面はないだろうか。アルコール度数あたりの酒税は、ハイボール(つまりウィスキー)の方がビールより安いのである。お財布に優しいことは、ハイボールやウィスキーの普及と裾野の拡大を大いに後押ししただろう。

かつてスコットランドのウィスキーは、イギリス連合王国からの課税を逃れるため、他の酒樽で「密造」されたことで、樽からの色合い、香り、味わいを得て豊かさを増した。スコットランドの蒸留所の「反抗」が現在のスコッチを産んだのである。ささやかではあるものの、日本人らしい気がするこの「反抗」も、世界のウィスキーに新局面を産み出すきっかけになりはしないだろうか。

さて、期待と妄想に浸りながら、今宵ももう1杯。

 

歌文化とカラオケ

「ひふみんアイ」なる動画がyoutubeで配信されている。

2017年にプロ棋士を「引退」したものの、引退どころか活躍の幅を広げている、将棋の加藤一二三九段。決して上手とは思えない歌唱力でありながら、その特異なキャラクター性を活かし、かの「PPAP」の古坂大魔王の協力を得て軽快なメロディーとリズムで子供達とダンスする有様は、印象深い。

ひふみんアイ公式動画

歌は、人類にとって長い歴史を持つ文化的遺産である。その中でカラオケは、歌文化の一層の大衆化を促した、日本が誇る金字塔と考えている。筆者住まいの近隣にある、根津の居酒屋では、毎晩カラオケ好きの客が集い、カラオケに興じている。

歌の持つ、メロディー、リズム、韻律、作詞の含意、そして想像を掻き立ててくれる創作者の求めたイメージの世界。いずれも私たちを非日常の世界へ誘ってくれるとともに、意識して覚える記憶以上の、言葉にし難い「痕跡」を刻み込む。

その昔、人には意識がなく、「神々の声が聞こえた」とする「二分心」仮説が唱えられたことがある。トロイ戦争を描いた叙事詩「イーリアス」では、「意識」や意識を前提とした語彙はなく、人間は各自の「うちなる神々の声」に従って生きていたとされる。約3,000年前、人間は言語を見出し、言語から生じた自己の「意識」を獲得するにつれて、文明を加速度的に発達させたが、一方で神々の声が聞こえなくなっていったという。(ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』1976年)



「二分心」の仮説について筆者なりに考えを進めると、人間は「神々の記憶」を求め、あるいは「非日常への誘い」に抗しきれず、歌を歌う、祭りを行う、手を合わせて拝む、などの行為を行うのではないか、と想像の翼をはためかせてしまう。

歌は、各文明、文化の中で、一定の規則を作り、時には壊しながら人と共に歩んできた。中国の古詩、漢詩、欧州の吟遊詩人の活動、グレゴリウス聖歌、クラッシック音楽など、日本でも和歌や俳句、後に続く民謡、謡曲、歌謡などである。

「二分心」の仮説は、あくまで仮説であり、いまだ実証されている領域には至っていない。しかし、筆者は、実生活の中で歌に触れてきた身としては、何だか妙に納得感のある説明だな、と思ってしまう。

ともかくも、人類の歴史と歩みを共にしながら、歌文化は「カラオケ」へと至った。一定の訓練を経た者でなくても、周囲を楽しませることができ、そうでなくても、ハードル低く自己陶酔に浸ることができる環境を実現したのである。

カラオケによる大衆化は、「日常化」であり、歌文化が育んできた非日常性の喪失と捉える指摘があるかもしれない。だが、歌文化のここまでの大衆化をもたらした原動力は、人々の「非日常への憧れ」ではなかっただろうか。筆者もかかる仮説に想いを馳せながら、今日も歌に興じるのである。

関宿水門と江戸の水運

関宿は、利根川・江戸川分岐近くにある。江戸時代の水運の要衝であった。写真は、江戸川にかかる関宿水門である。水門の向こうに関宿城(復元)が見える。

写真は、千葉県野田市関宿町から江戸川対岸にある、茨城県猿島郡五霞町から撮影している。五霞町は、茨城県の中で唯一利根川・江戸川の右岸にある。五霞町が茨城県に属した経緯は、利根川東遷事業の経緯に絡んでくるのであるが、それはまた別の機会に。

<関宿水門>

関宿水門は、大正7年(1918年)に着工し、昭和2年(1927年)に完成した。多くはコンクリート製であるが、一部石材が使われている。



利根川東遷事業は、徳川家康の江戸入府後に開始されたとされている。北関東の利根川水系、渡良瀬川水系は、当時主に南へ流れ江戸湾に注いでいた。2つの水系を、別の鬼怒川水系と合わせて、銚子方面へ流れる利根川と、江戸湾へ流れる江戸川に分けていったのであるが、幾多の土木工事を積み重ね、最終的に現在の河川の形となったのは、大正15年(1926年)の権現堂川(関宿から見て上流だったところ)の締め切りと昭和2年の関宿水門の完成である。

利根川東遷事業は、江戸時代には利根川と江戸川を連結させ、新田開発用地の確保だけでなく、銚子から江戸湾に至る水運をもたらした。人口増大に向かう江戸の街に「強力な流通インフラ」を備えさせたのである。東北から海路だけで江戸湾に至る「東廻り航路」も開発されたが、荒れやすい犬吠埼沖や房総半島の迂回を避けるため、利根川から江戸川の水運は重要だった。

写真は、「棒出し」に使われていた石材である。棒出しは、江戸川への水量を制限し、利根川への水量を増やすため、分岐近くの江戸川の両岸に作られた人工の突堤であった。

写真は、関宿水門の少し南にある、江戸川の堤防である。上の写真は堤防を下から撮影したもの、下の写真は堤防の上から見た江戸川である。

明治時代に入ると鉄道網が広がりを見せ、水運の重要性は低下した。河川政策も、治水対策に重きを置かれ、西欧からも技術者を招いて堤防が盛んに作られた。関宿水門は、かかる治水対策の軌道の中で、「棒出し」に代わる、江戸川への水量調整の施設として作られた。

写真は、関宿水門の西端にある、小舟が通過できる閘門(こうもん)である。

<関宿城>

関宿城は、復元されたものである。元は、現在よりも200メートルほど南方にある小高い丘の上にあったようだ。明治時代以降に、河川の護岸工事が進み、関宿の「中洲」状の陸地はやや北へシフトしている。

繰り返すが、江戸時代、関宿は水運の要衝であった。そして関宿藩は、水運と江戸城を守る要衝でもあった。関宿藩には、徳川家康異父弟の松平康元に始まり、信頼のある譜代大名が入り続け、老中も多数輩出した。最も長く治めたのは久世家である。幕末の久世広周は、井伊直弼と対立し、桜田門外の変の後、安藤信正とともに公武合体政策を推進した。

関宿は江戸時代の姿ではない。しかし、この地は江戸を支えた水運の要所であったことには変わらない。

関宿と利根川、江戸川の水運がもたらした物資の流通と集積のシステムは、江戸の消費経済を支え、繁栄をもたらした。明治時代以降は、流通と集積のシステムの担い手は水運から鉄道輸送やトラック輸送に継承されて、現在の東京への繋がっていくのである。

 

野田のしょうゆ工場

しょうゆ、さらに限定すると、現在の醤油生産量の8割を占める「こいくちしょうゆ」は、江戸と、江戸周辺に集積される物資から誕生した。江戸時代後期に至って、「こいくちしょうゆ」は、江戸の食生活の中で基本的な調味料となり、寿司、天ぷら、そば、うなぎなど、代表的とされる日本料理を確立させた。

日本のしょうゆ生産の4割近くは千葉県で行われている。千葉県の有名なしょうゆ生産拠点は、野田と銚子である。両者に共通するのは、「物流の要衝」であることである。

キッコーマン野田工場は、千葉県内の東武鉄道・東武アーバンパークライン(以前の東武野田線)野田市駅より徒歩3分のところにある。

駅を降りると、至近距離にある、しょうゆ工場から、炊いた大豆の香りが漂う。工場に入ると、工場特有のオイル臭が大豆の香りに混じり合う。

しょうゆは、極めてシンプルな原材料から生産される。大豆、小麦、塩の基本的な原材料に対して、種麹(たねこうじ)を入れて発酵させる。職人の手によって作られていた江戸時代から、オートメーション化され大規模生産されるようになった現在に至るまで、基本的な生産工程は変わらない。

おおまかな生産工程は以下の通りである。

①蒸した大豆と、炒って細かく砕いた小麦に、種麹を混入し、温度と湿度を調整された製麹室(せいきくしつ)で3日間かけ「しょうゆ麹」を作る。「こいくちしょうゆ」は、大豆と小麦は1:1の割合で配合される。


②「しょうゆ麹」と食塩水を混ぜ「もろみ」を作り、もろみを仕込タンクで数ヶ月間発酵、熟成させる。
③熟成させたもろみを布にくるんで、圧力をかけることで、「生しょうゆ」を濾過する。
④「生しょうゆ」を3〜4日間かけて不純物を分離した後、火入れを行い、酵素の働きを止める。



野田の地のしょうゆ生産が発展したのは、江戸時代の水運である。江戸時代、野田には河岸と呼ばれる商業集落が作られていた。いわゆる利根川東遷工事の中で、現在の利根川及び江戸川の原型が整備される中で、これら河川は太平洋岸から江戸に至る水運を担うことになった。また河岸各地や街道で繋がる各地の年貢米や特産品などの物資を集積、流通させる拠点として河岸が成立したのである。

野田の地は、しょうゆの原材料である、大豆、小麦、塩を集積させる立地に恵まれていた。大豆は常陸から、小麦は下総から、塩は行徳から、それぞれ集められた。生産量が増えるにつれ、これら以外の各地からも集積されていく。同時に、大消費地である江戸へのアクセスにも恵まれていた。やがて、野田のしょうゆは、ブランドとして確立されていく。

しょうゆは、江戸の街を成立させた基盤である、物資の流通と集積のシステムが生み出した調味料と言える。そして、しょうゆは江戸のみならず、日本の料理の確立に大きく寄与をしていった。我々が毎日食べている食事も、間違いなく、江戸の先人たちの行動、なりわいの上に成り立っていることを感じさせてくれるのである。

根津神社例大祭

あいにくの雨となった、2017年9月17日(日)の根津神社例大祭。にも関わらず、大勢の担ぎ手が参集した。上記は開始前の片町町会の御酒所の前である。御酒所は、言問通り沿い北側の、根津交差点から谷中の坂(善光寺坂)へ向かう手前に設置される。

ここでは、根津片町町会の神輿について取り上げ、いくつかのシーンを追っていきたい。写真は適宜追加し、加筆予定である。


根津のランドマークである串揚げ屋「はん亭」横の路地を入るところである。はん亭建物は日本家屋である部分を残しており、重要文化財に指定されている。建物背景の上空は明るく見えるが、雨は降り止まない。



神輿の順路は、以下の通りである。

根津片町町会御酒所
→根津片町西側路地を北上
→右折して観音通りに入り東行
→谷中との境界である旧藍染川の通りを南行
→言問通りを西行し御酒所前を通過して根津交差点を左折
→不忍通りを南行し左折ののち、はん亭のある路地に入る
→言問通りに戻り根津交差点を右折して不忍通りを北上
→「根津神社入口」で左折し西行、表参道から根津神社へ入る
→根津神社を出て東行し、そのまま直進して藍染大通りへ入る
→藍染通りを西に逆行して左折し、不忍通りを南行
→根津交差点を左折し御神酒前に戻る

以前は、最後の御酒所に戻る前に、根津の南にある宮永町方面へ何度か練り歩くこともあったそうだ。

 


根津交差点に入るところである。今年で見納めの吉野家の看板が見える。根津交差点の吉野家は2017年8月末で閉店した。不忍通り拡張工事に伴うセットバックのためである。年を経るごとに、街の風景も少しづつ変わっていく。


根津神社に入るところである。少し見えづらいが、神輿の奥の暗がりに、根津神社の石碑が確認できる。神社境内に入る頃が、最も雨が強かったか。

ちょうど写真に写っている片町の半纏について少しご紹介。片町の古いタイプの半纏の背中部分には「根片」の文字が、新しいタイプの半纏の背中部分には「片町」の文字が描かれている。


根津神社を出た後、藍染大通りへ入っているところ。ここまで来ると、雨で半纏が、相当濡れて重くなっていた。すでに提灯に明かりが灯っている時刻だ。

 

ヱビスビール

根津、筆者自宅近隣にて琥珀ヱビスを一杯。色も美しい。

好きはビールは?と聞かれれば、何と言ってもヱビスビールである。昨今東京では様々なビールを飲むことができる。サッポロ黒ラベル、プレミアムモルツ、カールスバーグ、それぞれ筆者はお気に入りである。気候、料理との取り合わせ、それと体調など様々な要素との相性もある。しかし、ビール単独で、と言われると、やはりヱビスビールに帰ってくるのである。

明治23年(1890年)、「恵比寿麦酒」が発売された。本格的なドイツビールを、ということでドイツ人技師(カール・カイザー氏)を招いた上で生産された。当時は高価品であったが、差別化も成功したのか、たちまち人気ビールの座を獲得した。

ちなみに、「恵比寿」の地名は、現在の東京・恵比寿の工場(現在は、恵比寿ガーデンプレイス)があったことから命名されたものである。JR恵比寿駅も、当初はヱビスビールを搬送するために開設されたものだ。

ヱビスビールの美味しさは、やはり「ビールを飲んだ」という納得感ではないだろうか。麦芽、ホップの使用量が多く、長期熟成しているとある(サッポロビール公式ホームページより)。うん、これは美味しいでしょ(笑)

あとは香りだろうか。体調にもよるが、ホップの香りが鮮烈で、刺激で味覚を活性化してくれる。なるほど、昨今は発泡酒も美味しい。しかし、香り、他にも飲みごたえとなると、かなわないのではないか。(よくよく考えると、子供の頃感じたあの苦くてとても不快な感覚の記憶はいったいどこへ行ったのやら。人も歳とともに、こうも変わるとは。。。)

ビールシェアトップの時代もあったが、現在は他ブランドに押され気味か。プレミアムビールのカテゴリーでは「プレミアムモルツ」とバトル中である。やはり、筆者は好物のヱビスビールを応援したくなるが。。。

ビールの歴史は古く、農耕文明の先駆けと言われるメソポタミアにて古代シュメール人の時代、またはそれ以前から作られていたようだ。大麦は、小麦と異なり製粉が容易ではなかったが、麦芽の状態にすると消化が良くなる。ビール作りは、消化の良くなかった大麦を、消化の良い麦芽パンに加工していく試行錯誤の中で、派生して発生したと考えられている。また保存性を高めるため香料などが添加され、やがてホップも加えられるようになった。

やがてビールはヨーロッパへ伝わった。ギリシア、ローマでは当時、麦類の育成が良好ではなく、またビールは辺境民族の飲料とみなされ、下等な飲料とみなされていたが、ゲルマン民族、後のドイツ系民族は、現代に通じるビール醸造術を育んでいった。

アサヒビールのサイト情報は、上記のビール歴史について詳しく面白い。宜しければ一読されては。

http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/history/asia/as_history.html

ヱビスビールに合う料理の紹介も行いたかったが、取材が充分に追いつかないこともあり、後日順次掲載予定である。

いずれにしても、ヱビスビールは明治時代の東京が育んだ本格ビールであり、多くのビール党に愛されてきた。ビールやヱビスビールの脈々たる歴史を感じながら、飲んでみるのも一興ではないだろうか。

根津と池之端の境界にて

文京区根津は、江戸時代に根津神社の門前町として栄えた。根津の名前の由来は、神社説と地形説がある。

根津は、西に本郷台地、東に藍染川、南に不忍池に囲まれた土地だった。

こちらは現在の根津の南端である。写真左側のマンション(旧弥生会館跡地)は根津側であり、写真右側は「上野グリーンクラブ(日本盆栽共同組合)」は池之端側である。江戸時代には池之端側は埋め立てられる前の不忍池の一部であった。ここから南側(写真左方向)には上野動物園・西園があるが、いずれも明治時代に埋め立てられた土地である。

根津の南端は、不忍池に面してお玉ヶ池、隅田川を経由して江戸湊まで水路でつながっており、「波止場」の時代があったと想像される。根津地名の地形説は、ここから来ている。なお、江戸時代後期に入り、お玉ヶ池は埋め立てられ消滅している。

根津、池之端を画する境界は、「藍染川」のあった道である。藍染川は、元々は石神井川の本流と言われ、不忍池に注いでいた。1964年の東京オリンピックを前に完全に暗渠となった。



以下は、現在の文京区・根津2丁目の地図である。根津の南端と不忍池の位置関係を見て、当時の状況を想像されたし。

根津南端の根津/池之端境界付近で、藍染川暗渠のある場所である。左側が根津、右側が池之端である。この写真の真後ろへ藍染川が続き、不忍池へと注いでいたのである。

幕末頃の付近の古地図によれば、藍染川を挟んで根津と池之端にまたがって秋元但馬守の広大な下屋敷があったことが分かる。旧弥生会館跡に建つマンション(根津側)と水月ホテル鴎外荘(池之端側)を含めて、いずれも秋元但馬守の下屋敷であったのだ。

秋元但馬守として特に有名なのは、元禄12年(1699年)から正徳4年(1714年)にかけて老中を務めた秋元喬知(たかとも)である。戸田家より養子に入り、母方の祖父である秋元家を継いだ。正徳元年(1711年)には、甲斐国・谷村藩1万8千石から川越藩5万石へ転封になっている。川越藩の前藩主は柳沢吉保であり、またかの知恵伊豆こと松平信綱など老中など幕府要職に就くお歴々が治めている。川越藩主は、佐倉藩主に次いで老中就任者が多く、川越藩への転封は栄転と言えるだろう。

秋元喬知の事績として、元禄大地震の復興への尽力を含めた土木工事対応があるが、トピックスとして語り継がれるのは、宝永4年(1707年)の八瀬童子と天台座主・公弁法親王の争いに下した裁定である。これは比叡山延暦寺領への入会権を巡る争いであった。

秋元喬知は本件で八瀬童子の旧来からの権益を実質的に確保したことで感謝された。八瀬郷は京都の八瀬天満宮の摂社として「秋元神社」を建立し、秋元喬知本人を祭神として祀っている。毎年10月には「八瀬赦免地踊り(無形文化財指定)」が奉納されている。

なお近隣には、上述した松平伊豆守の屋敷跡地も存在する。それはまた別の機会に。

以下、「藍染川」の跡を少し先へ進んでみる。

先ほどから少し進んだところである。細い道が続いている。

この先を進むと根津側(左側)にかの有名なうどん屋「釜竹」がある。池之端側には中華料理店「BIKA」がある。やがて言問通りにたどり着く。

釜竹のうどん。いつ食べても美味しい。

元々「藍染川」であった道のため、この先も延々と続いている。言問通りに出る辺りからは、根津・谷中の境界と変わり、藍染大通りとの交差点を過ぎ、いわゆる「へび道」付近からは千駄木・谷中の境界と変わっていく。

以上で見てきた「藍染川」だが、現在の路地の幅そのままでないにしても、当時の川幅は狭かったのではないだろうか。道も傾斜はほとんど感じられず、むしろ平坦である。不忍池には、雨天時には上野の山からも雨水が流れてくるため、逆流することもあったようである。

そこで、現在で言う「言問通り」辺りから、藍染川の迂回路が作られた。「五人堀」と呼ばれた。根津交差点(言問通りと不忍通り)から南下し、串揚げや「はん亭」付近で路地に入り、不忍池へ注いでいた。

老舗串揚げ屋・はん亭はこちら。

付近のお薦めスポットを少し紹介。

根津と池之端の境界、池之端側の公園に、旧都電の車両が設置されている。東京メトロ千代田線が開通するまでは、不忍通り沿いには都電が走っていた。

 

2017年5月オープンした、NC(ナチュラルカレーレストラン)。根津の南の端にある。

こちらメニュー。健康によい食材が満載である。

筆者お気に入りの、キーマカレー、1,000円。玄米がなんとも嬉しいです。

<NC営業時間、アクセス>

営業時間:11:30~19:00 (水曜日のみ11:30~15:00)

定休日:日曜日

 

 

バランタインファイネスト

現在流通しているスコッチウィスキーの9割がブレンディッドウィスキーと言われている。昨今、1980年代、90年代以降からシングルモルトの愛飲家の割合が増加し、世上でもてはやされているように見受けられる。しかし流通量から考えるに、シングルモルト蒸留所の主たる関心はブレンディッドウィスキーの「原酒」としてシングルモルトを生産することに注がれているのではないか、と思えてくる。

ブレンディッドウィスキーとは、大麦麦芽を原料としたモルトウィスキーと、大麦麦芽以外の穀物(トウモロコシ、ライ麦、小麦など)を原料の中心とするグレーンウィスキーを、独自の比率でブレンドしたものである。各個別の銘柄の長所を上手く引き立たせ、それぞれの強すぎる個性をマイルドにしながら、飲みやすく配合されている。

バランタイン社は、1895年にヴィクトリア女王より王室御用達をお墨付き得ている。そもそも、スコッチウィスキーは、スコットランドがイングランドへ統合されていく過程で、強化される酒類への課税政策に反発し、密造酒として別の酒樽に隠していた中であの琥珀色などの独特の色合いや、特徴ある味わいが得られるようになったものである。他のスコッチウィスキーメーカーにも王室御用達を得ていることろがあるが、密造酒の「末裔(?)」たるスコッチウィスキーが、かつて対立した歴史持つ当事者の英王室からお墨付きを得ているのだ。何とも愉快な話に思えてくる。


1910年にスコットランドのバランタイン社より発売された「バランタインファイネスト」は、最も有名なブレンディッドウィスキーの1つである。日本では、現在は700ml瓶のサントリー希望小売価格が1,390円(税別)、スーパーマーケット等の小売店では税込で1,000円前後の価格で購入できる。

金額が手頃であるが故に、バーで500円以上の価格でグラス売りされると、原価との比較の上でなんだか損した気分になってしまうかもしれない。筆者も店売りのショットを口にした記憶がない。(上記の写真が初めて?)しかし、この1瓶の中には、なかなか軽んじることができない魅力があふれているものである。


まずは、内容云々の前に、ボトルのキャップに工夫が凝らされていることを指摘したい。同程度価格帯の700mlウィスキーボトルだと、コスト面からかコルク栓のものはあまり見られず、アルミキャップが多い。アルミキャップでは、経年と共にどうしても水分の蒸発が進みやすい。

バランタインファイネストでは、ボトルキャップの裏側に、プラスチック素材を取り付けており、瓶とキャップの、密閉度を高めて、水分蒸発を抑えている。コルク栓には及ばないものの、一定期間は品質劣化が抑えられるのではないか。

味わいの話に移る。バランタインの各銘柄は、「ピート臭」がアクセントになっている。モルトウィスキー製造工程で麦芽を乾燥させる際には、木材やガスによる加熱などの他に、昔ながらの「ピート(泥炭)」が利用される場合がある。ピートは、コケ、シダ、海藻類が堆積してできた、炭化度合の浅い石炭であり、スコットランド北部の原野でみられるものだ。切り出して乾燥させて上で燃料として使われる。ピートを燃料として麦芽を乾燥させた際に付着する、それぞれの特徴ある「ピート臭」は時として「スモーキーフレーバー」と呼称されることがある。

バランタインファイネストを口にして最初に感じるのは、「ラフロイグ」を思わせる印象的な芳香である。ラフロイグのもつ、海藻類に由来する、ヨード臭に似た鮮烈なピート臭は、一口飲んだだけで好きな人と嫌いな人を分けてしまうものだと言われている。現在は、バランタインのマスターブレンダーの公式見解は、「ブレンド内容を明らかにせず」の立場なので、正確にラフロイグが使われているかは分からない。

しかし、バランタインファイネストの「ピート臭」はまず入り口での刺激は感じさせつつも、すぐに甘い香り、味わいが包み込み、人によっては不快に感じることのある感覚を大いに和らげてくれる。個々の尖った要素を決して孤立させず、それでいて全体の中に要素を受け入れて、かつ、活かしている、これは「包む」という表現が最もマッチしているだろう。この「甘い」ことについての表現について、バニラ、蜂蜜、チョコレートなどの食材の名前がしばしば使われている。

アルコール度数が高いウィスキーの敷居を下げ、ウィスキーの裾野を広げたソーダ割という飲み方、いわゆる「ハイボール」の貢献と存在を否定する気は毛頭ない。ただ、やはり本銘柄のお薦めは、無理のない範囲内で一度はストレート、ないしはロックで試してみることではないか。

手頃な価格帯のウィスキーが多く出回る時代になった中で、これだけ多くの要素を織り込んだ、複雑な味わいを感じさせてくれる銘柄はなかなか見当たらない。普段使われていなかった味覚、嗅覚を活性化させてくれる。新たな世界を発見してみるのは一興である。

 

 

旧谷中清水町〜松平伊豆守下屋敷の跡地

100円で乗ることができる台東区循環バス「めぐりん」は重宝する。「めぐりん」のうち、「東西めぐりん」は浅草から谷中まで台東区内を東西に走っているが、浅草から上野公園を過ぎると「谷中清水町公園」というバス停にたどり着く。

バス停近くには、台東区の谷中一丁目と池之端四丁目にまたがる「谷中清水町公園」があり、旧谷中清水町に関する町名由来の案内が記載されている。昭和42年(1967年)の住居表示変更より前は、池之端四丁目と三丁目は、「谷中清水町」であった。その経緯もあり、現在も日暮里の「諏方神社」の氏子町である。

旧谷中清水町の町名の由来は、護国院の清水門があったためである。護国院は、寛永寺の最初の子院であり、谷中七福神の1つである大黒天が祀られている。清水門の由来は、清水が湧いていたからとのことである。清水が湧きそうな上野の山の傾斜地「清水坂」があり、往時が想像される。



「谷中清水町」の場所は、江戸時代には、かの松平伊豆守こと松平信綱の下屋敷であった。さすがに加賀前田家上屋敷などには及ばないものの、広大な敷地を占めている。

松平信綱は、三代将軍家光及び四代将軍家綱の時代に老中を務めており、幕藩体制の確立に尽力した。明暦3年(1657年)の、いわゆる明暦大火の際にも事後収拾の対応を行った。文京区大部分の江戸市街化は、明暦の大火の後と言われるので、松平信綱自身も、一帯の整備開発に貢献したことと思われる。

地図は池之端四丁目を指している。松平伊豆守の下屋敷を思させる遺構自体は残されておらず、現在は住宅街となっている。しかし、周辺を散歩すると、土地の歴史について思い至ることがあった。

池之端四丁目の中央部分は、根津方面から上野の山の裏手の東京芸大方面へ抜ける際の最短ルートとなる。最短ルートであるのは、距離だけではなく、坂道が緩やかなのである。途中の坂道は「三段坂」と呼ばれる坂があり、その名の通り緩やかな段が3段付いている。池之端四丁目の住宅地を散歩すると実感できるが、言問通り沿いの善光寺坂や、上野の山沿いの清水坂(上記地図だと池之端四丁目の南東角辺り)と比べると、坂が緩やかで、移動が快適に感じられる。

現代に残る坂道は、台地の斜面近くに人が住むだけで出来上がったものではない。人が往来が集積していく中で、人の通行をより容易ならしめるため、傾斜路をなだらかする土木工事などの改良が加えられ、積み重ねられることで、初めて人が快適に通行するのに適した「坂道」が出来上がる。

「三段坂」の名称が付いたのは戦後、三段の坂が作られたのは明治20年代であるとのことだが、松平伊豆守の屋敷地として概ね江戸時代を通して使われたことで、人の通行にやさしい坂道である、「三段坂」のベースが形作られていったのではないだろうか。

 

以下、近隣の紹介を少し。

池之端四丁目南方の路地にあるホテルグラフィ根津。外国人宿泊客にも人気である。1Fに宿泊者に限らず利用できるカフェ/バーがある。

 

 

根津との境界である旧「藍染川」沿いには、老舗の中華料理店「BIKA」がある。谷根千散策の後で立ち寄られてはいかがだろうか。

名物のニラそば。900円

エビシュウマイ。600円。

アクセスは以下の通り。