旧谷中清水町〜松平伊豆守下屋敷の跡地

100円で乗ることができる台東区循環バス「めぐりん」は重宝する。「めぐりん」のうち、「東西めぐりん」は浅草から谷中まで台東区内を東西に走っているが、浅草から上野公園を過ぎると「谷中清水町公園」というバス停にたどり着く。

バス停近くには、台東区の谷中一丁目と池之端四丁目にまたがる「谷中清水町公園」があり、旧谷中清水町に関する町名由来の案内が記載されている。昭和42年(1967年)の住居表示変更より前は、池之端四丁目と三丁目は、「谷中清水町」であった。その経緯もあり、現在も日暮里の「諏方神社」の氏子町である。

旧谷中清水町の町名の由来は、護国院の清水門があったためである。護国院は、寛永寺の最初の子院であり、谷中七福神の1つである大黒天が祀られている。清水門の由来は、清水が湧いていたからとのことである。清水が湧きそうな上野の山の傾斜地「清水坂」があり、往時が想像される。



「谷中清水町」の場所は、江戸時代には、かの松平伊豆守こと松平信綱の下屋敷であった。さすがに加賀前田家上屋敷などには及ばないものの、広大な敷地を占めている。

松平信綱は、三代将軍家光及び四代将軍家綱の時代に老中を務めており、幕藩体制の確立に尽力した。明暦3年(1657年)の、いわゆる明暦大火の際にも事後収拾の対応を行った。文京区大部分の江戸市街化は、明暦の大火の後と言われるので、松平信綱自身も、一帯の整備開発に貢献したことと思われる。

地図は池之端四丁目を指している。松平伊豆守の下屋敷を思させる遺構自体は残されておらず、現在は住宅街となっている。しかし、周辺を散歩すると、土地の歴史について思い至ることがあった。

池之端四丁目の中央部分は、根津方面から上野の山の裏手の東京芸大方面へ抜ける際の最短ルートとなる。最短ルートであるのは、距離だけではなく、坂道が緩やかなのである。途中の坂道は「三段坂」と呼ばれる坂があり、その名の通り緩やかな段が3段付いている。池之端四丁目の住宅地を散歩すると実感できるが、言問通り沿いの善光寺坂や、上野の山沿いの清水坂(上記地図だと池之端四丁目の南東角辺り)と比べると、坂が緩やかで、移動が快適に感じられる。

現代に残る坂道は、台地の斜面近くに人が住むだけで出来上がったものではない。人が往来が集積していく中で、人の通行をより容易ならしめるため、傾斜路をなだらかする土木工事などの改良が加えられ、積み重ねられることで、初めて人が快適に通行するのに適した「坂道」が出来上がる。

「三段坂」の名称が付いたのは戦後、三段の坂が作られたのは明治20年代であるとのことだが、松平伊豆守の屋敷地として概ね江戸時代を通して使われたことで、人の通行にやさしい坂道である、「三段坂」のベースが形作られていったのではないだろうか。

 

以下、近隣の紹介を少し。

池之端四丁目南方の路地にあるホテルグラフィ根津。外国人宿泊客にも人気である。1Fに宿泊者に限らず利用できるカフェ/バーがある。

 

 

根津との境界である旧「藍染川」沿いには、老舗の中華料理店「BIKA」がある。谷根千散策の後で立ち寄られてはいかがだろうか。

名物のニラそば。900円

エビシュウマイ。600円。

アクセスは以下の通り。

 

上野の山へ至る道・谷中の三崎坂

谷中の名前は、上野の山と本郷台に挟まれた「谷間」から名が付いた、と言われる。実際に谷中を歩いてみると、単純に挟まれた場所ではなく、そこは坂の緩急がバラエティーに富んでおり、興味を惹く地形である。

東京メトロ千代田線・千駄木駅を下車し、不忍通りに面した団子坂下から、東の方角に進むと、上野の山へ至る坂道がある。坂道は、少しづづ傾斜を登る進行方向に向かって概ねやや右に迂回しながら、やがて上野の山へ到達する。上野の山へ向かう途中の登り坂は、「三崎坂(さんさきざか)」と呼ばれる。現在の台東区・谷中の中心部を東西に横切る坂道である。

三崎坂沿いの寺院には、上野戦争の弾痕が残されている。

こちらは谷中・三崎坂の谷中小学校近くにある日蓮宗・長久寺。

  

上野戦争の際には、新政府軍の主力部隊(薩摩藩兵中心)は、寛永寺の黒門口から攻撃を行った。新政府軍の別動隊(長州藩兵中心)は、団子坂下から三崎坂を経由して天王寺及び寛永寺谷中門(裏門)方面へ目掛けて進軍した。彰義隊は、三崎坂道中の寺院、民家で待ち伏せを行い、進軍してくる新政府軍に抗戦した。谷中は江戸時代に入って形成された寺町である。幕末には多数の寺院があった。そしてそのいくつかが現在まで残されている。



長久寺の弾痕は、上記の戦闘の際にできたものである。上野戦争の戦火で灰燼に帰した寺院も多かったため、当時は幾多の銃弾が飛び交ったであろう。

新政府軍主力が黒門口から寛永寺境内へ攻撃開始後、新政府軍別動隊は、谷中天王寺を占拠した。

進軍ルートについて、天王寺制圧の後、寛永寺の背後を衝くために、三崎坂のルートを選択したのでは、と推測する。現在の根津交差点(不忍通りと言問通りの交差点)から進軍した方が寛永寺へはやや距離が短いように見えるが、当時は寛永寺の敷地は上野桜木あたりまで張り出しており、天王寺敷地まで隣接していた。付近の寺町を含めて彰義隊が占拠していただろうから、挟み撃ちに遭う危険もあり、彰義隊を各個撃破できる三崎坂ルートを選択するルートに軍配が上がる感がある。

ルート選択の理由としてもう一点挙げるならば、「坂道の勾配」ではないだろうか。

こちらは根津交差点から上野の山へ続く坂道である。根津から谷中に入る辺り、写真で信号のある所は、丁度根津と谷中の境界だが、上野桜木へ向かう坂の勾配が急になっていることが分かる。余談だがここは善光寺坂と呼ばれ、かつてあった寺の名前が坂に残っているものである。

 

次に団子坂下から上野の山へ続く坂道、すなわち三崎坂。根津からのルートと比較すると、幾分坂の勾配が穏やかに見える。

 

上野戦争当時は、欧州からの大砲やライフル銃など西洋式の近代化武器が浸透していった時代とはいえ、当然ながら徒歩により進軍を行った。しかも、火事が江戸の街に広がることを抑えるため、わざわざ雨天の日を選んで上野の山の彰義隊の討伐作戦が行われたという。道路が舗装されていない時代であるので、雨天時の寛永寺に至る坂道はぬかるんでいたに違いない。新政府軍は、移動距離は長いものの、やや坂が緩やかで行軍ハードルの低い三崎坂のルートを選んだのではないか、と考えてしまう。

攻撃側の進軍ルート選択の自由度を狭めさせることは、守備側のメリットとなる。上野の山の寛永寺は、ここで眺めた谷中の「坂」にも守られていた、と言えないだろうか。

上野精養軒のダブルコンソメスープ

本格フレンチレストランの名店・上野精養軒は、上野恩賜公園の中にある。

開業は明治5年(1872年)で、上野の地に開店したのは明治9年(1876年)、上野恩賜公園の開設時だった。

時代はいわゆる「鹿鳴館時代」で、明治政府は先進的であるとされた西欧文化を取り入れることで、日本を近代国家をたらしめんとしていた。上野精養軒は、そんな時代の空気の中で、日本に西欧料理を根付かせる役割を担ってきた老舗であり、当時からの伝統を引き継いでいる料理を現在も提供している。

ロビーのバルコニーからの眺めである。晴天に不忍池、弁天堂が映え、食事前の「オードブル」として心地よく心を弾ませてくれる。

上野精養軒の中でも、特に秀逸な一皿をご紹介したい。グリルフクシマで出される「ダブルコンソメスープ」である。

最初は、「おや、コースの途中に、突然紅茶なのか?」と感じたが。。。

コンソメとは、大手食品メーカーの「コンソメスープの素」や、菓子類の「コンソメ味」が一般に浸透しているせいで、ありふれたスープである印象が広まっている感がある。元々はフランス語で「完成された(consomme)」という意味である。通常は、肉類、魚類からとった出汁により、脂肪分が少ない肉類や野菜を煮立てて作られる。また澄んだ琥珀色の色合いを保つように、適宜アク取りを行う必要がある。

ダブルコンソメスープとは、コンソメスープの出汁をとる工程を2回かけ、作られる、非常に手間暇をかけた料理である。

飽食の時代である。多くの料理がそこそこ美味しく、そこそこ食べることができるように作られ、提供される。筆者は料理の専門家ではないが、深い印象が残り、感動を覚える味とは、味覚の中で普段使われていない神経が覚醒し、にわかに知覚と感覚により捉えている外界が拡がる、そんな体験をさせてくれる味だと考えている。

このダブルコンソメスープは、コース料理の場合、前半に出されるものである。食することで大いに自身を活性化してくれるが、具材が入っているわけではないため、決して満腹にはならない。むしろ食することで、以後の料理を「活性化された」状態となり味わうことができる。コース料理としてはしばしば耳にすることとはいえ、改めてコース料理の意味を鮮烈に「味わう」ことができた。

椀盛は「日本料理の華」と言われる。同様に、コンソメスープは「フランス料理の真髄」と呼ばれる。そのことを改めて心に刻んでくれる一品であった。

<アクセス>

 

上野恩賜公園~寛永寺黒門跡

上野恩賜公園の広小路側入口である。

現在の上野恩賜公園は、その大半がかつて寛永寺境内だった。慶応4年5月15日(1868年7月4日)、上野戦争の戦火により寛永寺の主要な伽藍は失われ、境内の用地は新政府に没収された。その後広大な境内地は、公園とされた。

<寛永寺の黒門跡>

寛永寺黒門、すなわちかつての寛永寺の総門があったのは、広小路側入口から桜並木道に入る手前の場所である。左手に、江戸時代天明期の文人・蜀山人(大田南畝)の碑がある。黒門にまつわる歌を残している。

現在公園の大噴水のある付近には、かつては寛永寺の根本中堂があった。すなわち、公園の広小路入口から大噴水に至る桜の並木路は、寛永寺の表参道であった。

参道は坂道が続いていることが分かる。

 

黒門跡地を遠目に、公園入口まで下がった写真。この辺りからも坂道の傾斜が続いていることが分かる。写真右手には木の陰に階段があり、かつては「山王台」と呼ばれた小高い場所へと続いている。黒門は西側に「山王台」を控えた隘路となっている参道の入口に設けられていた。

上野戦争の激戦地となった「黒門口の戦い」では、上野広小路方面から黒門前に押し寄せた新政府軍を、山王台の上から彰義隊が射撃し応戦した。

<円通寺>

荒川区の円通寺には、当時の黒門が現存している。

円通寺は、彰義隊戦死者の遺骸が放置されていたところ、当時の住職が火葬により弔い、後に新政府より正式に供養を行うことが許された。後に明治40年(1907年)、帝室博物館より下賜された。

近づくと、上野戦争時の銃痕が生々しく残されているのが分かる。銃痕は新政府側の射撃によるものであるので、彰義隊側も同様に当該黒門内側より応射していたのであろう。激しい銃撃戦の痕跡である。

  

 

<彰義隊の墓>

山王台の上には、彰義隊の墓が佇んでいる。火葬の後、円通寺に葬られているので、正確には墓というより記念碑と呼ぶべきか。

<西郷隆盛像>

山王台の彰義隊の墓の手前に、あの西郷隆盛像が立てられている。

 <アクセス>

 

根津と根津神社

<明暦の大火>

根津神社は、不忍通りから少し西向きに入った路地を進んだ、住宅街の先にある。表参道鳥居横にある「根津神社」とある神社名石碑は、内務大臣や農商務大臣を歴任した、平田東助が揮毫したもの。

根津の街が本格的に形作られてきたのは、明暦の大火の後である。それまでは、神田川以北では上野寛永寺周辺と湯島本郷の一部だけが市街化されており、あとは農村が広がっていた。

明暦の大火とは、明暦3年(1657年)に当時の江戸の街を襲った大火事である。本郷方面から出た火の手が江戸城を含めた江戸の街に広がり、江戸時代通じて最大の大火事となった。この大火をきっかけに防火対策として、隅田川に千住大橋以外の橋が架けられ、火除け地が設けられ今に残る「広小路」の名が生まれ、飛び火を抑えるため、吹上にあった御三家の屋敷を移転させるなどが行われた。

根津の街は、上記の江戸市街地拡大に伴い、武家地が移転されてきて本格化した。

<根津神社>

根津神社は、1900年前に大和武尊が現在の千駄木の地に創祀したとされる。文明年間(1469〜87年)には太田道灌が社殿を造営したと伝えられる。その後江戸時代初期には、団子坂上に遷座していた。

現在の根津神社の地は、甲府藩邸があった。6代将軍徳川家宣の生誕の地でもある。5代将軍徳川綱吉は、家宣を後継者に定めると、旧甲府藩邸の地が献納され、宝永3年(1706年)現在の社殿が完成し、同年遷座した。

以来、根津神社門前には多数の遊郭が建つなど栄えたが、明治時代に入り、近隣の本郷に帝国大学(現在の東京大学)が設立されることを受け、門前の遊郭は洲崎へ移転させられた。

<社殿>

本殿・幣殿・拝殿が一つにまとめられた権現造の形式である。重要文化財に指定されている。

楼門。

拝殿。

つつじ苑。4月〜5月初旬につつじ祭りが開催される。

<近隣の風景>

以下、根津神社の近隣の風景をご紹介。

「根津神社入口」は不忍通り沿いにある。写真は根津神社へ至る通りとは反対側に伸びる「藍染大通り」である。

木造の根津教会。大正8年(1919年)に建てられた。

根津ふれあい会館。公民館的な施設だが、1階で近隣の郷土資料などを展示している。

<アクセス>