歌文化とカラオケ

「ひふみんアイ」なる動画がyoutubeで配信されている。

2017年にプロ棋士を「引退」したものの、引退どころか活躍の幅を広げている、将棋の加藤一二三九段。決して上手とは思えない歌唱力でありながら、その特異なキャラクター性を活かし、かの「PPAP」の古坂大魔王の協力を得て軽快なメロディーとリズムで子供達とダンスする有様は、印象深い。

ひふみんアイ公式動画

歌は、人類にとって長い歴史を持つ文化的遺産である。その中でカラオケは、歌文化の一層の大衆化を促した、日本が誇る金字塔と考えている。筆者住まいの近隣にある、根津の居酒屋では、毎晩カラオケ好きの客が集い、カラオケに興じている。

歌の持つ、メロディー、リズム、韻律、作詞の含意、そして想像を掻き立ててくれる創作者の求めたイメージの世界。いずれも私たちを非日常の世界へ誘ってくれるとともに、意識して覚える記憶以上の、言葉にし難い「痕跡」を刻み込む。

その昔、人には意識がなく、「神々の声が聞こえた」とする「二分心」仮説が唱えられたことがある。トロイ戦争を描いた叙事詩「イーリアス」では、「意識」や意識を前提とした語彙はなく、人間は各自の「うちなる神々の声」に従って生きていたとされる。約3,000年前、人間は言語を見出し、言語から生じた自己の「意識」を獲得するにつれて、文明を加速度的に発達させたが、一方で神々の声が聞こえなくなっていったという。(ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』1976年)



「二分心」の仮説について筆者なりに考えを進めると、人間は「神々の記憶」を求め、あるいは「非日常への誘い」に抗しきれず、歌を歌う、祭りを行う、手を合わせて拝む、などの行為を行うのではないか、と想像の翼をはためかせてしまう。

歌は、各文明、文化の中で、一定の規則を作り、時には壊しながら人と共に歩んできた。中国の古詩、漢詩、欧州の吟遊詩人の活動、グレゴリウス聖歌、クラッシック音楽など、日本でも和歌や俳句、後に続く民謡、謡曲、歌謡などである。

「二分心」の仮説は、あくまで仮説であり、いまだ実証されている領域には至っていない。しかし、筆者は、実生活の中で歌に触れてきた身としては、何だか妙に納得感のある説明だな、と思ってしまう。

ともかくも、人類の歴史と歩みを共にしながら、歌文化は「カラオケ」へと至った。一定の訓練を経た者でなくても、周囲を楽しませることができ、そうでなくても、ハードル低く自己陶酔に浸ることができる環境を実現したのである。

カラオケによる大衆化は、「日常化」であり、歌文化が育んできた非日常性の喪失と捉える指摘があるかもしれない。だが、歌文化のここまでの大衆化をもたらした原動力は、人々の「非日常への憧れ」ではなかっただろうか。筆者もかかる仮説に想いを馳せながら、今日も歌に興じるのである。

根津神社例大祭

あいにくの雨となった、2017年9月17日(日)の根津神社例大祭。にも関わらず、大勢の担ぎ手が参集した。上記は開始前の片町町会の御酒所の前である。御酒所は、言問通り沿い北側の、根津交差点から谷中の坂(善光寺坂)へ向かう手前に設置される。

ここでは、根津片町町会の神輿について取り上げ、いくつかのシーンを追っていきたい。写真は適宜追加し、加筆予定である。


根津のランドマークである串揚げ屋「はん亭」横の路地を入るところである。はん亭建物は日本家屋である部分を残しており、重要文化財に指定されている。建物背景の上空は明るく見えるが、雨は降り止まない。



神輿の順路は、以下の通りである。

根津片町町会御酒所
→根津片町西側路地を北上
→右折して観音通りに入り東行
→谷中との境界である旧藍染川の通りを南行
→言問通りを西行し御酒所前を通過して根津交差点を左折
→不忍通りを南行し左折ののち、はん亭のある路地に入る
→言問通りに戻り根津交差点を右折して不忍通りを北上
→「根津神社入口」で左折し西行、表参道から根津神社へ入る
→根津神社を出て東行し、そのまま直進して藍染大通りへ入る
→藍染通りを西に逆行して左折し、不忍通りを南行
→根津交差点を左折し御神酒前に戻る

以前は、最後の御酒所に戻る前に、根津の南にある宮永町方面へ何度か練り歩くこともあったそうだ。

 


根津交差点に入るところである。今年で見納めの吉野家の看板が見える。根津交差点の吉野家は2017年8月末で閉店した。不忍通り拡張工事に伴うセットバックのためである。年を経るごとに、街の風景も少しづつ変わっていく。


根津神社に入るところである。少し見えづらいが、神輿の奥の暗がりに、根津神社の石碑が確認できる。神社境内に入る頃が、最も雨が強かったか。

ちょうど写真に写っている片町の半纏について少しご紹介。片町の古いタイプの半纏の背中部分には「根片」の文字が、新しいタイプの半纏の背中部分には「片町」の文字が描かれている。


根津神社を出た後、藍染大通りへ入っているところ。ここまで来ると、雨で半纏が、相当濡れて重くなっていた。すでに提灯に明かりが灯っている時刻だ。

 

ヱビスビール

根津、筆者自宅近隣にて琥珀ヱビスを一杯。色も美しい。

好きはビールは?と聞かれれば、何と言ってもヱビスビールである。昨今東京では様々なビールを飲むことができる。サッポロ黒ラベル、プレミアムモルツ、カールスバーグ、それぞれ筆者はお気に入りである。気候、料理との取り合わせ、それと体調など様々な要素との相性もある。しかし、ビール単独で、と言われると、やはりヱビスビールに帰ってくるのである。

明治23年(1890年)、「恵比寿麦酒」が発売された。本格的なドイツビールを、ということでドイツ人技師(カール・カイザー氏)を招いた上で生産された。当時は高価品であったが、差別化も成功したのか、たちまち人気ビールの座を獲得した。

ちなみに、「恵比寿」の地名は、現在の東京・恵比寿の工場(現在は、恵比寿ガーデンプレイス)があったことから命名されたものである。JR恵比寿駅も、当初はヱビスビールを搬送するために開設されたものだ。

ヱビスビールの美味しさは、やはり「ビールを飲んだ」という納得感ではないだろうか。麦芽、ホップの使用量が多く、長期熟成しているとある(サッポロビール公式ホームページより)。うん、これは美味しいでしょ(笑)

あとは香りだろうか。体調にもよるが、ホップの香りが鮮烈で、刺激で味覚を活性化してくれる。なるほど、昨今は発泡酒も美味しい。しかし、香り、他にも飲みごたえとなると、かなわないのではないか。(よくよく考えると、子供の頃感じたあの苦くてとても不快な感覚の記憶はいったいどこへ行ったのやら。人も歳とともに、こうも変わるとは。。。)

ビールシェアトップの時代もあったが、現在は他ブランドに押され気味か。プレミアムビールのカテゴリーでは「プレミアムモルツ」とバトル中である。やはり、筆者は好物のヱビスビールを応援したくなるが。。。

ビールの歴史は古く、農耕文明の先駆けと言われるメソポタミアにて古代シュメール人の時代、またはそれ以前から作られていたようだ。大麦は、小麦と異なり製粉が容易ではなかったが、麦芽の状態にすると消化が良くなる。ビール作りは、消化の良くなかった大麦を、消化の良い麦芽パンに加工していく試行錯誤の中で、派生して発生したと考えられている。また保存性を高めるため香料などが添加され、やがてホップも加えられるようになった。

やがてビールはヨーロッパへ伝わった。ギリシア、ローマでは当時、麦類の育成が良好ではなく、またビールは辺境民族の飲料とみなされ、下等な飲料とみなされていたが、ゲルマン民族、後のドイツ系民族は、現代に通じるビール醸造術を育んでいった。

アサヒビールのサイト情報は、上記のビール歴史について詳しく面白い。宜しければ一読されては。

http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/history/asia/as_history.html

ヱビスビールに合う料理の紹介も行いたかったが、取材が充分に追いつかないこともあり、後日順次掲載予定である。

いずれにしても、ヱビスビールは明治時代の東京が育んだ本格ビールであり、多くのビール党に愛されてきた。ビールやヱビスビールの脈々たる歴史を感じながら、飲んでみるのも一興ではないだろうか。

根津と池之端の境界にて

文京区根津は、江戸時代に根津神社の門前町として栄えた。根津の名前の由来は、神社説と地形説がある。

根津は、西に本郷台地、東に藍染川、南に不忍池に囲まれた土地だった。

こちらは現在の根津の南端である。写真左側のマンション(旧弥生会館跡地)は根津側であり、写真右側は「上野グリーンクラブ(日本盆栽共同組合)」は池之端側である。江戸時代には池之端側は埋め立てられる前の不忍池の一部であった。ここから南側(写真左方向)には上野動物園・西園があるが、いずれも明治時代に埋め立てられた土地である。

根津の南端は、不忍池に面してお玉ヶ池、隅田川を経由して江戸湊まで水路でつながっており、「波止場」の時代があったと想像される。根津地名の地形説は、ここから来ている。なお、江戸時代後期に入り、お玉ヶ池は埋め立てられ消滅している。

根津、池之端を画する境界は、「藍染川」のあった道である。藍染川は、元々は石神井川の本流と言われ、不忍池に注いでいた。1964年の東京オリンピックを前に完全に暗渠となった。



以下は、現在の文京区・根津2丁目の地図である。根津の南端と不忍池の位置関係を見て、当時の状況を想像されたし。

根津南端の根津/池之端境界付近で、藍染川暗渠のある場所である。左側が根津、右側が池之端である。この写真の真後ろへ藍染川が続き、不忍池へと注いでいたのである。

幕末頃の付近の古地図によれば、藍染川を挟んで根津と池之端にまたがって秋元但馬守の広大な下屋敷があったことが分かる。旧弥生会館跡に建つマンション(根津側)と水月ホテル鴎外荘(池之端側)を含めて、いずれも秋元但馬守の下屋敷であったのだ。

秋元但馬守として特に有名なのは、元禄12年(1699年)から正徳4年(1714年)にかけて老中を務めた秋元喬知(たかとも)である。戸田家より養子に入り、母方の祖父である秋元家を継いだ。正徳元年(1711年)には、甲斐国・谷村藩1万8千石から川越藩5万石へ転封になっている。川越藩の前藩主は柳沢吉保であり、またかの知恵伊豆こと松平信綱など老中など幕府要職に就くお歴々が治めている。川越藩主は、佐倉藩主に次いで老中就任者が多く、川越藩への転封は栄転と言えるだろう。

秋元喬知の事績として、元禄大地震の復興への尽力を含めた土木工事対応があるが、トピックスとして語り継がれるのは、宝永4年(1707年)の八瀬童子と天台座主・公弁法親王の争いに下した裁定である。これは比叡山延暦寺領への入会権を巡る争いであった。

秋元喬知は本件で八瀬童子の旧来からの権益を実質的に確保したことで感謝された。八瀬郷は京都の八瀬天満宮の摂社として「秋元神社」を建立し、秋元喬知本人を祭神として祀っている。毎年10月には「八瀬赦免地踊り(無形文化財指定)」が奉納されている。

なお近隣には、上述した松平伊豆守の屋敷跡地も存在する。それはまた別の機会に。

以下、「藍染川」の跡を少し先へ進んでみる。

先ほどから少し進んだところである。細い道が続いている。

この先を進むと根津側(左側)にかの有名なうどん屋「釜竹」がある。池之端側には中華料理店「BIKA」がある。やがて言問通りにたどり着く。

釜竹のうどん。いつ食べても美味しい。

元々「藍染川」であった道のため、この先も延々と続いている。言問通りに出る辺りからは、根津・谷中の境界と変わり、藍染大通りとの交差点を過ぎ、いわゆる「へび道」付近からは千駄木・谷中の境界と変わっていく。

以上で見てきた「藍染川」だが、現在の路地の幅そのままでないにしても、当時の川幅は狭かったのではないだろうか。道も傾斜はほとんど感じられず、むしろ平坦である。不忍池には、雨天時には上野の山からも雨水が流れてくるため、逆流することもあったようである。

そこで、現在で言う「言問通り」辺りから、藍染川の迂回路が作られた。「五人堀」と呼ばれた。根津交差点(言問通りと不忍通り)から南下し、串揚げや「はん亭」付近で路地に入り、不忍池へ注いでいた。

老舗串揚げ屋・はん亭はこちら。

付近のお薦めスポットを少し紹介。

根津と池之端の境界、池之端側の公園に、旧都電の車両が設置されている。東京メトロ千代田線が開通するまでは、不忍通り沿いには都電が走っていた。

 

2017年5月オープンした、NC(ナチュラルカレーレストラン)。根津の南の端にある。

こちらメニュー。健康によい食材が満載である。

筆者お気に入りの、キーマカレー、1,000円。玄米がなんとも嬉しいです。

<NC営業時間、アクセス>

営業時間:11:30~19:00 (水曜日のみ11:30~15:00)

定休日:日曜日

 

 

旧谷中清水町〜松平伊豆守下屋敷の跡地

100円で乗ることができる台東区循環バス「めぐりん」は重宝する。「めぐりん」のうち、「東西めぐりん」は浅草から谷中まで台東区内を東西に走っているが、浅草から上野公園を過ぎると「谷中清水町公園」というバス停にたどり着く。

バス停近くには、台東区の谷中一丁目と池之端四丁目にまたがる「谷中清水町公園」があり、旧谷中清水町に関する町名由来の案内が記載されている。昭和42年(1967年)の住居表示変更より前は、池之端四丁目と三丁目は、「谷中清水町」であった。その経緯もあり、現在も日暮里の「諏方神社」の氏子町である。

旧谷中清水町の町名の由来は、護国院の清水門があったためである。護国院は、寛永寺の最初の子院であり、谷中七福神の1つである大黒天が祀られている。清水門の由来は、清水が湧いていたからとのことである。清水が湧きそうな上野の山の傾斜地「清水坂」があり、往時が想像される。



「谷中清水町」の場所は、江戸時代には、かの松平伊豆守こと松平信綱の下屋敷であった。さすがに加賀前田家上屋敷などには及ばないものの、広大な敷地を占めている。

松平信綱は、三代将軍家光及び四代将軍家綱の時代に老中を務めており、幕藩体制の確立に尽力した。明暦3年(1657年)の、いわゆる明暦大火の際にも事後収拾の対応を行った。文京区大部分の江戸市街化は、明暦の大火の後と言われるので、松平信綱自身も、一帯の整備開発に貢献したことと思われる。

地図は池之端四丁目を指している。松平伊豆守の下屋敷を思させる遺構自体は残されておらず、現在は住宅街となっている。しかし、周辺を散歩すると、土地の歴史について思い至ることがあった。

池之端四丁目の中央部分は、根津方面から上野の山の裏手の東京芸大方面へ抜ける際の最短ルートとなる。最短ルートであるのは、距離だけではなく、坂道が緩やかなのである。途中の坂道は「三段坂」と呼ばれる坂があり、その名の通り緩やかな段が3段付いている。池之端四丁目の住宅地を散歩すると実感できるが、言問通り沿いの善光寺坂や、上野の山沿いの清水坂(上記地図だと池之端四丁目の南東角辺り)と比べると、坂が緩やかで、移動が快適に感じられる。

現代に残る坂道は、台地の斜面近くに人が住むだけで出来上がったものではない。人が往来が集積していく中で、人の通行をより容易ならしめるため、傾斜路をなだらかする土木工事などの改良が加えられ、積み重ねられることで、初めて人が快適に通行するのに適した「坂道」が出来上がる。

「三段坂」の名称が付いたのは戦後、三段の坂が作られたのは明治20年代であるとのことだが、松平伊豆守の屋敷地として概ね江戸時代を通して使われたことで、人の通行にやさしい坂道である、「三段坂」のベースが形作られていったのではないだろうか。

 

以下、近隣の紹介を少し。

池之端四丁目南方の路地にあるホテルグラフィ根津。外国人宿泊客にも人気である。1Fに宿泊者に限らず利用できるカフェ/バーがある。

 

 

根津との境界である旧「藍染川」沿いには、老舗の中華料理店「BIKA」がある。谷根千散策の後で立ち寄られてはいかがだろうか。

名物のニラそば。900円

エビシュウマイ。600円。

アクセスは以下の通り。

 

上野の山へ至る道・谷中の三崎坂

谷中の名前は、上野の山と本郷台に挟まれた「谷間」から名が付いた、と言われる。実際に谷中を歩いてみると、単純に挟まれた場所ではなく、そこは坂の緩急がバラエティーに富んでおり、興味を惹く地形である。

東京メトロ千代田線・千駄木駅を下車し、不忍通りに面した団子坂下から、東の方角に進むと、上野の山へ至る坂道がある。坂道は、少しづづ傾斜を登る進行方向に向かって概ねやや右に迂回しながら、やがて上野の山へ到達する。上野の山へ向かう途中の登り坂は、「三崎坂(さんさきざか)」と呼ばれる。現在の台東区・谷中の中心部を東西に横切る坂道である。

三崎坂沿いの寺院には、上野戦争の弾痕が残されている。

こちらは谷中・三崎坂の谷中小学校近くにある日蓮宗・長久寺。

  

上野戦争の際には、新政府軍の主力部隊(薩摩藩兵中心)は、寛永寺の黒門口から攻撃を行った。新政府軍の別動隊(長州藩兵中心)は、団子坂下から三崎坂を経由して天王寺及び寛永寺谷中門(裏門)方面へ目掛けて進軍した。彰義隊は、三崎坂道中の寺院、民家で待ち伏せを行い、進軍してくる新政府軍に抗戦した。谷中は江戸時代に入って形成された寺町である。幕末には多数の寺院があった。そしてそのいくつかが現在まで残されている。



長久寺の弾痕は、上記の戦闘の際にできたものである。上野戦争の戦火で灰燼に帰した寺院も多かったため、当時は幾多の銃弾が飛び交ったであろう。

新政府軍主力が黒門口から寛永寺境内へ攻撃開始後、新政府軍別動隊は、谷中天王寺を占拠した。

進軍ルートについて、天王寺制圧の後、寛永寺の背後を衝くために、三崎坂のルートを選択したのでは、と推測する。現在の根津交差点(不忍通りと言問通りの交差点)から進軍した方が寛永寺へはやや距離が短いように見えるが、当時は寛永寺の敷地は上野桜木あたりまで張り出しており、天王寺敷地まで隣接していた。付近の寺町を含めて彰義隊が占拠していただろうから、挟み撃ちに遭う危険もあり、彰義隊を各個撃破できる三崎坂ルートを選択するルートに軍配が上がる感がある。

ルート選択の理由としてもう一点挙げるならば、「坂道の勾配」ではないだろうか。

こちらは根津交差点から上野の山へ続く坂道である。根津から谷中に入る辺り、写真で信号のある所は、丁度根津と谷中の境界だが、上野桜木へ向かう坂の勾配が急になっていることが分かる。余談だがここは善光寺坂と呼ばれ、かつてあった寺の名前が坂に残っているものである。

 

次に団子坂下から上野の山へ続く坂道、すなわち三崎坂。根津からのルートと比較すると、幾分坂の勾配が穏やかに見える。

 

上野戦争当時は、欧州からの大砲やライフル銃など西洋式の近代化武器が浸透していった時代とはいえ、当然ながら徒歩により進軍を行った。しかも、火事が江戸の街に広がることを抑えるため、わざわざ雨天の日を選んで上野の山の彰義隊の討伐作戦が行われたという。道路が舗装されていない時代であるので、雨天時の寛永寺に至る坂道はぬかるんでいたに違いない。新政府軍は、移動距離は長いものの、やや坂が緩やかで行軍ハードルの低い三崎坂のルートを選んだのではないか、と考えてしまう。

攻撃側の進軍ルート選択の自由度を狭めさせることは、守備側のメリットとなる。上野の山の寛永寺は、ここで眺めた谷中の「坂」にも守られていた、と言えないだろうか。

上野精養軒のダブルコンソメスープ

本格フレンチレストランの名店・上野精養軒は、上野恩賜公園の中にある。

開業は明治5年(1872年)で、上野の地に開店したのは明治9年(1876年)、上野恩賜公園の開設時だった。

時代はいわゆる「鹿鳴館時代」で、明治政府は先進的であるとされた西欧文化を取り入れることで、日本を近代国家をたらしめんとしていた。上野精養軒は、そんな時代の空気の中で、日本に西欧料理を根付かせる役割を担ってきた老舗であり、当時からの伝統を引き継いでいる料理を現在も提供している。

ロビーのバルコニーからの眺めである。晴天に不忍池、弁天堂が映え、食事前の「オードブル」として心地よく心を弾ませてくれる。

上野精養軒の中でも、特に秀逸な一皿をご紹介したい。グリルフクシマで出される「ダブルコンソメスープ」である。

最初は、「おや、コースの途中に、突然紅茶なのか?」と感じたが。。。

コンソメとは、大手食品メーカーの「コンソメスープの素」や、菓子類の「コンソメ味」が一般に浸透しているせいで、ありふれたスープである印象が広まっている感がある。元々はフランス語で「完成された(consomme)」という意味である。通常は、肉類、魚類からとった出汁により、脂肪分が少ない肉類や野菜を煮立てて作られる。また澄んだ琥珀色の色合いを保つように、適宜アク取りを行う必要がある。

ダブルコンソメスープとは、コンソメスープの出汁をとる工程を2回かけ、作られる、非常に手間暇をかけた料理である。

飽食の時代である。多くの料理がそこそこ美味しく、そこそこ食べることができるように作られ、提供される。筆者は料理の専門家ではないが、深い印象が残り、感動を覚える味とは、味覚の中で普段使われていない神経が覚醒し、にわかに知覚と感覚により捉えている外界が拡がる、そんな体験をさせてくれる味だと考えている。

このダブルコンソメスープは、コース料理の場合、前半に出されるものである。食することで大いに自身を活性化してくれるが、具材が入っているわけではないため、決して満腹にはならない。むしろ食することで、以後の料理を「活性化された」状態となり味わうことができる。コース料理としてはしばしば耳にすることとはいえ、改めてコース料理の意味を鮮烈に「味わう」ことができた。

椀盛は「日本料理の華」と言われる。同様に、コンソメスープは「フランス料理の真髄」と呼ばれる。そのことを改めて心に刻んでくれる一品であった。

<アクセス>

 

上野恩賜公園~寛永寺黒門跡

上野恩賜公園の広小路側入口である。

現在の上野恩賜公園は、その大半がかつて寛永寺境内だった。慶応4年5月15日(1868年7月4日)、上野戦争の戦火により寛永寺の主要な伽藍は失われ、境内の用地は新政府に没収された。その後広大な境内地は、公園とされた。

<寛永寺の黒門跡>

寛永寺黒門、すなわちかつての寛永寺の総門があったのは、広小路側入口から桜並木道に入る手前の場所である。左手に、江戸時代天明期の文人・蜀山人(大田南畝)の碑がある。黒門にまつわる歌を残している。

現在公園の大噴水のある付近には、かつては寛永寺の根本中堂があった。すなわち、公園の広小路入口から大噴水に至る桜の並木路は、寛永寺の表参道であった。

参道は坂道が続いていることが分かる。

 

黒門跡地を遠目に、公園入口まで下がった写真。この辺りからも坂道の傾斜が続いていることが分かる。写真右手には木の陰に階段があり、かつては「山王台」と呼ばれた小高い場所へと続いている。黒門は西側に「山王台」を控えた隘路となっている参道の入口に設けられていた。

上野戦争の激戦地となった「黒門口の戦い」では、上野広小路方面から黒門前に押し寄せた新政府軍を、山王台の上から彰義隊が射撃し応戦した。

<円通寺>

荒川区の円通寺には、当時の黒門が現存している。

円通寺は、彰義隊戦死者の遺骸が放置されていたところ、当時の住職が火葬により弔い、後に新政府より正式に供養を行うことが許された。後に明治40年(1907年)、帝室博物館より下賜された。

近づくと、上野戦争時の銃痕が生々しく残されているのが分かる。銃痕は新政府側の射撃によるものであるので、彰義隊側も同様に当該黒門内側より応射していたのであろう。激しい銃撃戦の痕跡である。

  

 

<彰義隊の墓>

山王台の上には、彰義隊の墓が佇んでいる。火葬の後、円通寺に葬られているので、正確には墓というより記念碑と呼ぶべきか。

<西郷隆盛像>

山王台の彰義隊の墓の手前に、あの西郷隆盛像が立てられている。

 <アクセス>

 

根津と根津神社

<明暦の大火>

根津神社は、不忍通りから少し西向きに入った路地を進んだ、住宅街の先にある。表参道鳥居横にある「根津神社」とある神社名石碑は、内務大臣や農商務大臣を歴任した、平田東助が揮毫したもの。

根津の街が本格的に形作られてきたのは、明暦の大火の後である。それまでは、神田川以北では上野寛永寺周辺と湯島本郷の一部だけが市街化されており、あとは農村が広がっていた。

明暦の大火とは、明暦3年(1657年)に当時の江戸の街を襲った大火事である。本郷方面から出た火の手が江戸城を含めた江戸の街に広がり、江戸時代通じて最大の大火事となった。この大火をきっかけに防火対策として、隅田川に千住大橋以外の橋が架けられ、火除け地が設けられ今に残る「広小路」の名が生まれ、飛び火を抑えるため、吹上にあった御三家の屋敷を移転させるなどが行われた。

根津の街は、上記の江戸市街地拡大に伴い、武家地が移転されてきて本格化した。

<根津神社>

根津神社は、1900年前に大和武尊が現在の千駄木の地に創祀したとされる。文明年間(1469〜87年)には太田道灌が社殿を造営したと伝えられる。その後江戸時代初期には、団子坂上に遷座していた。

現在の根津神社の地は、甲府藩邸があった。6代将軍徳川家宣の生誕の地でもある。5代将軍徳川綱吉は、家宣を後継者に定めると、旧甲府藩邸の地が献納され、宝永3年(1706年)現在の社殿が完成し、同年遷座した。

以来、根津神社門前には多数の遊郭が建つなど栄えたが、明治時代に入り、近隣の本郷に帝国大学(現在の東京大学)が設立されることを受け、門前の遊郭は洲崎へ移転させられた。

<社殿>

本殿・幣殿・拝殿が一つにまとめられた権現造の形式である。重要文化財に指定されている。

楼門。

拝殿。

つつじ苑。4月〜5月初旬につつじ祭りが開催される。

<近隣の風景>

以下、根津神社の近隣の風景をご紹介。

「根津神社入口」は不忍通り沿いにある。写真は根津神社へ至る通りとは反対側に伸びる「藍染大通り」である。

木造の根津教会。大正8年(1919年)に建てられた。

根津ふれあい会館。公民館的な施設だが、1階で近隣の郷土資料などを展示している。

<アクセス>

東京メトロ千代田線・根津駅

東京メトロ千代田線の根津駅は、千駄木駅と並んで谷根千に直アクセスできる駅であり、谷根千のお散歩を楽しむには欠かせない。文京区内には、JRの駅は存在しない。谷根千の手近なアクセスは、東京メトロ千代田線及び都営バスであり、さもなくば徒歩10分程度の移動を行ってJR(上野駅、鶯谷駅)または京成電鉄(京成上野駅)を利用することになる。

千代田線は、代々木上原駅から綾瀬駅まで19駅ある。代々木上原駅からは小田急線に直通しており、また綾瀬駅からはJR常磐線に直通している。停車駅としても、明治神宮前駅(JR原宿駅)、表参道駅、国会議事堂駅、日比谷駅(JR有楽町駅が近隣)、大手町駅(JR東京駅が近隣)、西日暮里駅(JR西日暮里駅)など、都内の要所が含まれており、日常での利便性は高い。

千代田線は10両編成であり、駅出口は10両編成列車のほぼ先頭と最後尾のそれぞれの付近に2か所ある。降り口を誤ると概ね200メートルを歩くこととなり不便であるため、目的地にあった出口を選択すべきである。

<根津交差点口(北側の出口)>

  

不忍通りと言問通りが交差する「根津交差点」が目の前にある出口である。目的地が、根津神社、根津ふれあい会館、藍染大通り方面である場合はこちらの出口がお薦めである。

まずは「根津の街並みを散歩したいな」という方にはこちらの出口から出た方がいいだろう。

忘れ物対応などをしつ行う事務室は、こちらの出口にある。

<不忍口(南側の出口)>

  

不忍池方向で、文京区と台東区池之端の境界近くの出口。目的地が不忍池の他、上野動物園不忍口、水月ホテル鴎外荘に行く場合はこちらの出口の方が近い。横山大観記念館に行く場合は、根津駅不忍口よりも、隣の駅である湯島駅の方からの方がやや近い。

池之端から不忍池を散策したい、という方にはこちらの出口から出た方がいいだろう。

改札内には、「メトロ文庫」が設置されている。有志が持ち寄った文庫本等を借りることができる。

ホーム・改札階から地上に上がることのできるエレベーターは、こちらの出口にのみ設置されている。

上の写真は、根津駅の不忍口から出て、不忍通りから南側を眺めたところである。文京区(根津)と台東区(池之端)の境界がすぐそこにあることが分かる。遠目に見えるのは、秋葉原に建つダイビルである。

不忍口近くの、不忍通りから路地に入ったところには、あの「はん亭」の建物もある。貴重な日本家屋の姿を残すものであり、重要文化財に指定されている。根津のランドマーク的な存在である。