気楽にハイボールを飲みつつ、酒税の話少し


ハイボール、つまりウイスキーのソーダ割りの話である。

筆者は、努めて、バーなどでの注文時に「ハイボール」という呼び名は使用しない。可能な限りウィスキー銘柄名を出して、例えば、「リベットをソーダ割で」と伝える。ただし、日本では、既に一般名詞としての普及、浸透があることから、便宜のため、ここでは「ハイボール」で通す。

元々、筆者はハイボールなるものはほとんど飲まなかった。2008年にサントリーが火付け役になってブームになった際にも。しかし、時の経過ともに趣向が変わったのか、近頃飲む頻度が高まっている。場合や気分によっては、ビールの代わりに注文することもある。

「ウィスキー、特にシングルモルトはストレートで飲むべきだ」

よく語られ、よく耳にする「主張」ないしは「命題」である。確かに、シングルモルトが持つ、ピートや樽の微妙な香り、味わいなど、ストレート、ロック、あるいは若干の加水辺りまでで味わうのが、最も良さを引き出せると感じる。筆者自身もこの立場を変えていない。

しかし、ハイボールには、ハイボールの良さがある。ビールと比べて、ハイボールは口当たりが軽い印象だ。特に夏場には、散歩した後でいっぱい欲しいなと感じる際に、ビールよりも飲みやすいと感じる。カロリーなどがビールよりも低いのも、嬉しいところである。

流石に、ビールに代わる「一杯目の定番」とまでは認知されていない。使われるウィスキーにもよるが、特有の「香り」に抵抗感がある日本人はまだまだ多い。それでもハイボールを通して、「あ、ウィスキーはこんなものだったんだ〜」という具合に、「気付き」をもたらす効果は大きいと考える。徐々に飲まず嫌いが解消されて浸透していく気配もあり、当面は伸び代はあるのでは、と考えている。

ここで、ハイボールについて、「お金」に絡む話を。「酒税」についてである。


かつて中国では古代より、専売品への課税を行われてきた。塩、鉄、酒、時代を下ると茶が専売品とされ、統治者側の都合により税額が定められるものであった。日本では中世以降、「酒役」などの名称で酒屋への免許税の名目で課税が行われた。明治時代の日露戦争前後には、酒税が税収のトップを占めていた時期があった。

明治時代以降の日本では酒税は概ね、「和酒には低税率、洋酒には高税率」の傾向であった。洋酒は「贅沢品」と見做され、「贅沢品を飲む連中には高税率を(固く言うと『応能主義の原則』)」という観念だったのである。その後外圧もあり、昭和60年代以降からウィスキーなどに対する税率は段階的に軽減された。結果目立つようになったのは、ビールに対するアルコール度数あたりの酒税税率の高さである。



アルコール度数あたりの税額で考えると、ビールへの税額が突出しているのだ。現在、ビールの酒税対策として麦芽など原材料の比率を調整した発泡酒などが生産されている。発泡酒についてはビールよりも税率が軽減されているものの、段階的にビールと税率が統合されること(つまり現在より高税率へ移行すること)が発表されている。

かくもビールが「贅沢品である」との観念に、いつまでも支配されている状況である。それでも日本人は良くも悪くもおとなしい。声を大にして主張されることはまだまだ少ないと感じている。

かかる酒税体系の環境下で生じた、「ハイボール」の提案と普及は、酒税体系に対する一種の「反抗」である側面はないだろうか。アルコール度数あたりの酒税は、ハイボール(つまりウィスキー)の方がビールより安いのである。お財布に優しいことは、ハイボールやウィスキーの普及と裾野の拡大を大いに後押ししただろう。

かつてスコットランドのウィスキーは、イギリス連合王国からの課税を逃れるため、他の酒樽で「密造」されたことで、樽からの色合い、香り、味わいを得て豊かさを増した。スコットランドの蒸留所の「反抗」が現在のスコッチを産んだのである。ささやかではあるものの、日本人らしい気がするこの「反抗」も、世界のウィスキーに新局面を産み出すきっかけになりはしないだろうか。

さて、期待と妄想に浸りながら、今宵ももう1杯。

 

歌文化とカラオケ

「ひふみんアイ」なる動画がyoutubeで配信されている。

2017年にプロ棋士を「引退」したものの、引退どころか活躍の幅を広げている、将棋の加藤一二三九段。決して上手とは思えない歌唱力でありながら、その特異なキャラクター性を活かし、かの「PPAP」の古坂大魔王の協力を得て軽快なメロディーとリズムで子供達とダンスする有様は、印象深い。

ひふみんアイ公式動画

歌は、人類にとって長い歴史を持つ文化的遺産である。その中でカラオケは、歌文化の一層の大衆化を促した、日本が誇る金字塔と考えている。筆者住まいの近隣にある、根津の居酒屋では、毎晩カラオケ好きの客が集い、カラオケに興じている。

歌の持つ、メロディー、リズム、韻律、作詞の含意、そして想像を掻き立ててくれる創作者の求めたイメージの世界。いずれも私たちを非日常の世界へ誘ってくれるとともに、意識して覚える記憶以上の、言葉にし難い「痕跡」を刻み込む。

その昔、人には意識がなく、「神々の声が聞こえた」とする「二分心」仮説が唱えられたことがある。トロイ戦争を描いた叙事詩「イーリアス」では、「意識」や意識を前提とした語彙はなく、人間は各自の「うちなる神々の声」に従って生きていたとされる。約3,000年前、人間は言語を見出し、言語から生じた自己の「意識」を獲得するにつれて、文明を加速度的に発達させたが、一方で神々の声が聞こえなくなっていったという。(ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』1976年)



「二分心」の仮説について筆者なりに考えを進めると、人間は「神々の記憶」を求め、あるいは「非日常への誘い」に抗しきれず、歌を歌う、祭りを行う、手を合わせて拝む、などの行為を行うのではないか、と想像の翼をはためかせてしまう。

歌は、各文明、文化の中で、一定の規則を作り、時には壊しながら人と共に歩んできた。中国の古詩、漢詩、欧州の吟遊詩人の活動、グレゴリウス聖歌、クラッシック音楽など、日本でも和歌や俳句、後に続く民謡、謡曲、歌謡などである。

「二分心」の仮説は、あくまで仮説であり、いまだ実証されている領域には至っていない。しかし、筆者は、実生活の中で歌に触れてきた身としては、何だか妙に納得感のある説明だな、と思ってしまう。

ともかくも、人類の歴史と歩みを共にしながら、歌文化は「カラオケ」へと至った。一定の訓練を経た者でなくても、周囲を楽しませることができ、そうでなくても、ハードル低く自己陶酔に浸ることができる環境を実現したのである。

カラオケによる大衆化は、「日常化」であり、歌文化が育んできた非日常性の喪失と捉える指摘があるかもしれない。だが、歌文化のここまでの大衆化をもたらした原動力は、人々の「非日常への憧れ」ではなかっただろうか。筆者もかかる仮説に想いを馳せながら、今日も歌に興じるのである。

関宿水門と江戸の水運

関宿は、利根川・江戸川分岐近くにある。江戸時代の水運の要衝であった。写真は、江戸川にかかる関宿水門である。水門の向こうに関宿城(復元)が見える。

写真は、千葉県野田市関宿町から江戸川対岸にある、茨城県猿島郡五霞町から撮影している。五霞町は、茨城県の中で唯一利根川・江戸川の右岸にある。五霞町が茨城県に属した経緯は、利根川東遷事業の経緯に絡んでくるのであるが、それはまた別の機会に。

<関宿水門>

関宿水門は、大正7年(1918年)に着工し、昭和2年(1927年)に完成した。多くはコンクリート製であるが、一部石材が使われている。



利根川東遷事業は、徳川家康の江戸入府後に開始されたとされている。北関東の利根川水系、渡良瀬川水系は、当時主に南へ流れ江戸湾に注いでいた。2つの水系を、別の鬼怒川水系と合わせて、銚子方面へ流れる利根川と、江戸湾へ流れる江戸川に分けていったのであるが、幾多の土木工事を積み重ね、最終的に現在の河川の形となったのは、大正15年(1926年)の権現堂川(関宿から見て上流だったところ)の締め切りと昭和2年の関宿水門の完成である。

利根川東遷事業は、江戸時代には利根川と江戸川を連結させ、新田開発用地の確保だけでなく、銚子から江戸湾に至る水運をもたらした。人口増大に向かう江戸の街に「強力な流通インフラ」を備えさせたのである。東北から海路だけで江戸湾に至る「東廻り航路」も開発されたが、荒れやすい犬吠埼沖や房総半島の迂回を避けるため、利根川から江戸川の水運は重要だった。

写真は、「棒出し」に使われていた石材である。棒出しは、江戸川への水量を制限し、利根川への水量を増やすため、分岐近くの江戸川の両岸に作られた人工の突堤であった。

写真は、関宿水門の少し南にある、江戸川の堤防である。上の写真は堤防を下から撮影したもの、下の写真は堤防の上から見た江戸川である。

明治時代に入ると鉄道網が広がりを見せ、水運の重要性は低下した。河川政策も、治水対策に重きを置かれ、西欧からも技術者を招いて堤防が盛んに作られた。関宿水門は、かかる治水対策の軌道の中で、「棒出し」に代わる、江戸川への水量調整の施設として作られた。

写真は、関宿水門の西端にある、小舟が通過できる閘門(こうもん)である。

<関宿城>

関宿城は、復元されたものである。元は、現在よりも200メートルほど南方にある小高い丘の上にあったようだ。明治時代以降に、河川の護岸工事が進み、関宿の「中洲」状の陸地はやや北へシフトしている。

繰り返すが、江戸時代、関宿は水運の要衝であった。そして関宿藩は、水運と江戸城を守る要衝でもあった。関宿藩には、徳川家康異父弟の松平康元に始まり、信頼のある譜代大名が入り続け、老中も多数輩出した。最も長く治めたのは久世家である。幕末の久世広周は、井伊直弼と対立し、桜田門外の変の後、安藤信正とともに公武合体政策を推進した。

関宿は江戸時代の姿ではない。しかし、この地は江戸を支えた水運の要所であったことには変わらない。

関宿と利根川、江戸川の水運がもたらした物資の流通と集積のシステムは、江戸の消費経済を支え、繁栄をもたらした。明治時代以降は、流通と集積のシステムの担い手は水運から鉄道輸送やトラック輸送に継承されて、現在の東京への繋がっていくのである。

 

野田のしょうゆ工場

しょうゆ、さらに限定すると、現在の醤油生産量の8割を占める「こいくちしょうゆ」は、江戸と、江戸周辺に集積される物資から誕生した。江戸時代後期に至って、「こいくちしょうゆ」は、江戸の食生活の中で基本的な調味料となり、寿司、天ぷら、そば、うなぎなど、代表的とされる日本料理を確立させた。

日本のしょうゆ生産の4割近くは千葉県で行われている。千葉県の有名なしょうゆ生産拠点は、野田と銚子である。両者に共通するのは、「物流の要衝」であることである。

キッコーマン野田工場は、千葉県内の東武鉄道・東武アーバンパークライン(以前の東武野田線)野田市駅より徒歩3分のところにある。

駅を降りると、至近距離にある、しょうゆ工場から、炊いた大豆の香りが漂う。工場に入ると、工場特有のオイル臭が大豆の香りに混じり合う。

しょうゆは、極めてシンプルな原材料から生産される。大豆、小麦、塩の基本的な原材料に対して、種麹(たねこうじ)を入れて発酵させる。職人の手によって作られていた江戸時代から、オートメーション化され大規模生産されるようになった現在に至るまで、基本的な生産工程は変わらない。

おおまかな生産工程は以下の通りである。

①蒸した大豆と、炒って細かく砕いた小麦に、種麹を混入し、温度と湿度を調整された製麹室(せいきくしつ)で3日間かけ「しょうゆ麹」を作る。「こいくちしょうゆ」は、大豆と小麦は1:1の割合で配合される。


②「しょうゆ麹」と食塩水を混ぜ「もろみ」を作り、もろみを仕込タンクで数ヶ月間発酵、熟成させる。
③熟成させたもろみを布にくるんで、圧力をかけることで、「生しょうゆ」を濾過する。
④「生しょうゆ」を3〜4日間かけて不純物を分離した後、火入れを行い、酵素の働きを止める。



野田の地のしょうゆ生産が発展したのは、江戸時代の水運である。江戸時代、野田には河岸と呼ばれる商業集落が作られていた。いわゆる利根川東遷工事の中で、現在の利根川及び江戸川の原型が整備される中で、これら河川は太平洋岸から江戸に至る水運を担うことになった。また河岸各地や街道で繋がる各地の年貢米や特産品などの物資を集積、流通させる拠点として河岸が成立したのである。

野田の地は、しょうゆの原材料である、大豆、小麦、塩を集積させる立地に恵まれていた。大豆は常陸から、小麦は下総から、塩は行徳から、それぞれ集められた。生産量が増えるにつれ、これら以外の各地からも集積されていく。同時に、大消費地である江戸へのアクセスにも恵まれていた。やがて、野田のしょうゆは、ブランドとして確立されていく。

しょうゆは、江戸の街を成立させた基盤である、物資の流通と集積のシステムが生み出した調味料と言える。そして、しょうゆは江戸のみならず、日本の料理の確立に大きく寄与をしていった。我々が毎日食べている食事も、間違いなく、江戸の先人たちの行動、なりわいの上に成り立っていることを感じさせてくれるのである。

ヱビスビール

根津、筆者自宅近隣にて琥珀ヱビスを一杯。色も美しい。

好きはビールは?と聞かれれば、何と言ってもヱビスビールである。昨今東京では様々なビールを飲むことができる。サッポロ黒ラベル、プレミアムモルツ、カールスバーグ、それぞれ筆者はお気に入りである。気候、料理との取り合わせ、それと体調など様々な要素との相性もある。しかし、ビール単独で、と言われると、やはりヱビスビールに帰ってくるのである。

明治23年(1890年)、「恵比寿麦酒」が発売された。本格的なドイツビールを、ということでドイツ人技師(カール・カイザー氏)を招いた上で生産された。当時は高価品であったが、差別化も成功したのか、たちまち人気ビールの座を獲得した。

ちなみに、「恵比寿」の地名は、現在の東京・恵比寿の工場(現在は、恵比寿ガーデンプレイス)があったことから命名されたものである。JR恵比寿駅も、当初はヱビスビールを搬送するために開設されたものだ。

ヱビスビールの美味しさは、やはり「ビールを飲んだ」という納得感ではないだろうか。麦芽、ホップの使用量が多く、長期熟成しているとある(サッポロビール公式ホームページより)。うん、これは美味しいでしょ(笑)

あとは香りだろうか。体調にもよるが、ホップの香りが鮮烈で、刺激で味覚を活性化してくれる。なるほど、昨今は発泡酒も美味しい。しかし、香り、他にも飲みごたえとなると、かなわないのではないか。(よくよく考えると、子供の頃感じたあの苦くてとても不快な感覚の記憶はいったいどこへ行ったのやら。人も歳とともに、こうも変わるとは。。。)

ビールシェアトップの時代もあったが、現在は他ブランドに押され気味か。プレミアムビールのカテゴリーでは「プレミアムモルツ」とバトル中である。やはり、筆者は好物のヱビスビールを応援したくなるが。。。

ビールの歴史は古く、農耕文明の先駆けと言われるメソポタミアにて古代シュメール人の時代、またはそれ以前から作られていたようだ。大麦は、小麦と異なり製粉が容易ではなかったが、麦芽の状態にすると消化が良くなる。ビール作りは、消化の良くなかった大麦を、消化の良い麦芽パンに加工していく試行錯誤の中で、派生して発生したと考えられている。また保存性を高めるため香料などが添加され、やがてホップも加えられるようになった。

やがてビールはヨーロッパへ伝わった。ギリシア、ローマでは当時、麦類の育成が良好ではなく、またビールは辺境民族の飲料とみなされ、下等な飲料とみなされていたが、ゲルマン民族、後のドイツ系民族は、現代に通じるビール醸造術を育んでいった。

アサヒビールのサイト情報は、上記のビール歴史について詳しく面白い。宜しければ一読されては。

http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/history/asia/as_history.html

ヱビスビールに合う料理の紹介も行いたかったが、取材が充分に追いつかないこともあり、後日順次掲載予定である。

いずれにしても、ヱビスビールは明治時代の東京が育んだ本格ビールであり、多くのビール党に愛されてきた。ビールやヱビスビールの脈々たる歴史を感じながら、飲んでみるのも一興ではないだろうか。

渋谷の景色~道玄坂/宇田川町方面

ここでは渋谷の中心的繁華街が含まれる、道玄坂及び宇田川町のエリアを取り上げる。

渋谷駅周辺エリアは、こちらへ。

<セルリアンタワーと国道246号線>

 

渋谷駅から道玄坂方面へ桜ヶ丘・南平台方面に進む途中にセルリアンタワーの姿が目に入ってくる。セルリアンタワー東急ホテルやGMO本社が入居している。下を走るのは国道246号線、及び首都高速(高架部分)である。

国道246号線は、起点は東京都千代田区の三宅坂交差点であり、終点は国道1号に合流する静岡県沼津市である。通称「にー・よん・ろく」、場所により「青山通り」、「玉川通り」、「厚木街道」など呼び名を変えている。ほぼ東名高速、東急田園都市線と並行に走っている。

国道246号線は、元は東海道の脇街道として発達した「足柄道」であった。終戦後、国道1号線(元の東海道)は車線拡幅に限度があるため、拡幅が進められた。

<渋谷マークシティ>

<道玄坂>

<道玄坂道供養碑>

上記はJRまたは銀座線の渋谷駅を下りて、渋谷マークシティーを抜けた先にあり、道玄坂上交番前の交差点に面している。渋谷には、東に宮益坂、西に道玄坂がある。その昔薄暗い場所で、山賊が出たという。こちらの石碑は、坂の名の由来となった「道玄」という山賊を説明している。現在も、道玄坂の路地は風俗店やホテルの入る小型ビルが密集しており、薄暗い雰囲気が継続している。

<道玄坂上交番前>

 

筆者がよく昼食に使う道玄坂の2件の店舗である。詳細は割愛する。

<しぶや百軒店(しぶやひゃっけんだな)>

渋谷のかつての中心的繁華街である。

 

<タワーレコード>

スクランブル交差点から、宇田川町方面へ向かう途中にある。1990年代には渋谷は、特に宇田川町はレコード店の聖地と呼ばれていたが、昨今の店舗形態での運営は厳しい状況から店舗数は減少している。

<渋谷MEGAドンキ>

渋谷駅からハチ公前を通り、道玄坂を上って東急百貨店渋谷本店の手前にある。近隣にあった渋谷店の閉店後に2017年5月12日(金)にオープン。通常店の顧客層に加えてファミリー層の取込みも狙っている。

<東急百貨店渋谷本店>

昭和42年(1967年)開店。従来は住宅も点在する地域だったが、オープン以降、道玄坂の繁華街への変貌が加速した。

<代々木総合体育館>

かの丹下健三設計で代表作品の一つ。1964年9月、最後は突貫工事になりながら、東京オリンピックの39日前になんとか完成した。

<NHK>

左中央には「スタジオパーク」のモニュメントみたいな看板が見える。右には「代々木公園」入り口がある。(「代々木公園」はいまやポケモン聖地のひとつであるが、それはまた別の機会に。)

渋谷の景色~渋谷駅周辺

現在はITベンチャーの聖地となった渋谷。街を歩くと、他所では見られない独特のスポットで一杯だ。(今や、ポケモンとポケモンハンターも一杯だが、それはまた別の機会に。)

ここでは駅周辺エリアを取り上げる。

道玄坂/宇田川町エリアは、こちらへ。

<渋谷駅>

延々と再開発工事が続く渋谷駅。通るたびに通路が変わっている感がある。2027年には駅東側に地上47階のビルが建ち、屋上に展望施設が出来るとか。

江戸、及びそれを引き継いだ東京は、繁栄と人口増加で用地が不足した際には、周辺の街や村を取り込み、新たな江戸(東京)の一部として拡大再生産を重ねてきた。江戸(東京)はそれを可能とする立地に恵まれた。

渋谷は、現在も膨張を続ける東京の、最前線の一つである。いま目の前で行われている工事は、東京が続けてきた拡大再生産の延長線であり、またその現場の一断面だと考えると、近代的な光景とはいえ感慨が深くなる。

渋谷名物の、銀座線が地上に出ている姿である。JR渋谷駅から宮益坂方面へ出て、ヒカリエへ向かう途中の場所である。銀座線車両は数分おきに見かけることが出来る。少々見えづらいが、写真ではオレンジの銀座線の車両が地上3階を走っており、JR山手線(写真右下あたり)よりも上を走る有様はなんとも奇妙な光景と言える。

銀座線開通当時の技術では列車の急な坂の上り下りは困難であったため、平坦なルートを選んだ結果、「谷」である渋谷では地下鉄が地上に露出したものである。渋谷駅付近が「谷」底であること、また東西両側に「宮益坂」、「道玄坂」が控えている地形の特徴がよく表れている。

なお、丸ノ内線の「四ツ谷駅」でも同様の光景を見ることが出来る。

 

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<モヤイ像>

ハチ公像前とともに、銀座線を下りて道玄坂サイドに出たすぐの場所である。先日、ハチ公前の喫煙所が閉鎖されたため、渋谷駅近隣の喫煙所は少なくなった。その影響で、最近はスモーカーとタバコの煙で一杯である。上の写真のモヤイ像右側に見えるのは喫煙所の壁であり、中は喫煙者と煙があふれていた。

そもそもモヤイ像は、伊豆諸島の新島村の名物の石像である。新島村の場所は以下参照。

<ハチ公像>

<スクランブル交差点>



<のんべい横丁>

山手線ガード横に、36店舗がひしめいている。渋谷駅の件の延長線上で再開発の話があるものの、外国人観光客に人気があるため、2020年オリンピックまでは存続するとかしないとか。