食と東京

都市と農村を対比させる時、都市は通常、食糧生産の機能を持たないと理解される。人口が集積される都市では、集められる人口を養うための食糧を集積するシステムが必須の要素となる。


古今東西、為政者にとって、都市への食糧共有が途絶し都市の民衆が食糧不足で飢えることがあってはならない。食糧危機は、人々の政権への支持を低下させ、時にはデモや暴動の原因となり、為政者の統治基盤をストレートに揺るがすものとなる。古代ローマ帝国では皇帝の重要な職責が「パンとサーカス」と言われた。歴代のローマ皇帝たちは帝国内の安全保障を維持し、穀倉地帯であるエジプトなどからの小麦の流通が止まることのないように腐心した。また日本では、江戸幕府八代将軍・徳川吉宗は、「米将軍」と渾名された。これは毎年の天候による米の供給量の変動と、勃興する大商人の利得行為に晒され、乱高下する米価から下級武士及び庶民を保護する対応に苦慮する様から名付けられたものである。

ともかく、古来より「食」は都市の民衆にとって最大とも言っていい関心事であり、それがゆえに為政者にとって「食」の確保は欠くことのできない職責であったのだ。

東京の前身である江戸は、徳川家康の入府時点では、当時既に流通が盛んであった大坂とは異なり、関東の湿地帯の中にある、ただの未開の寒村に過ぎなかった。だが、同時に流通の中心地となりうる立地に恵まれていた。

前近代において重要な流通網は水運である。江戸の低地には隅田川、荒川、中川、江戸川の4つの河川が流れており、特に江戸川(太日(ふとい)川)、隅田川は武蔵北部あるいは北関東、さらには奥羽を結ぶ重要な水上交通としての役割を担っていた。また当時は江戸湾の奥深くまで「日比谷入江」が入り込んでおり、城下町づくりの上で港を取り込むことのできる立地に恵まれていた。(萩原さちこ(2017)、『江戸城の全貌』 さくら舎)

恵まれた立地に加え、治水工事や五街道の整備をはじめとする土木工事の積み重ねにより、江戸は日本の実質的な首都としてふさわしい「強い流通網」を構築し、日本中から食材を含めた多くの物資を集め始める。

江戸時代は「稲作の時代」とも言える。政策の全体感として商業主義を抑え、内向きの対外政策を進める中で、江戸時代前期の新田開発奨励により全国に稲田が広がり、稲作は日本の主要産業となった。

江戸時代後半になると、集積された人口と、「強い流通網」により江戸に集積された食料とが、上方料理から独立した「江戸料理」を誕生させることになる。昆布出汁は水質の関係もあり広くは浸透せず(あるいは気の短い江戸っ子の気性のせいか?)、鰹節が出汁の中心となった。加えて、江戸しょう油(現代でいう、こいくちしょう油)の生産が下総の野田、銚子で確立されるにつれ、現代に受け継がれる寿司、蕎麦、天ぷらが発展し広がっていった。これらは現代、「典型的な日本料理」として日本内外に認識されているものである。

明治時代を迎え、文明開化のスローガンのもと、洋食料理がもたらされ、洋食用の食材も輸入され、また一部の食材は日本で生産されるようになった。特筆すべきなのは、日本人が外国料理を片端から「日本風」にアレンジしてしまうことである。おろし大根ハンバーグ、カレーライス、パスタ料理、中国料理など、枚挙に暇がない。日本風ラーメンなどは、中国本土への進出を開始する有様である。これは江戸の料理文化の基盤があってこそではないか、と思う。

「食」は、人類にとって常に身近な関心事であると同時に、人類の歩みの積み重ねを色濃く投影しているものである。改めて江戸に始まり東京で育まれた「食」について思い巡らすと同時に、現在の東京の「食」から見えてくる景色を共有していきたい。