江戸城の話(その1)ー江戸城と東京の街

江戸城のお話を、筆者独自の視点から書いてまいります。

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現在の東京の街があるのは、江戸城のお陰だろう。

東京の前進である江戸は、江戸城を中心に発展してきた街である。江戸時代には政治の中心となり、幕藩体制のもと各地の大名の参勤交代により、江戸は100万人の人口を抱えていたとも言われる(ただし、諸説あり)。その江戸の街を継承して、さらに発展させたところに現在の東京の街がある。江戸城が、現在の東京の街を生み出した、と言えそうだ。

その江戸の街が戦火に巻き込まれそうになり、危機に瀕した時代が訪れた。戊辰戦争の時である。鳥羽伏見の戦いの後、前将軍・徳川慶喜は江戸に帰還し、新政府軍は江戸に進軍した。江戸の街を舞台に、新政府軍と旧幕府軍の大激突の展開もあり得た。だが、有名な「江戸城無血開城」により、江戸の街は戦火から救われた。(実際には上野戦争と呼ばれる戦火があり、上野の寛永寺一帯は炎上したが、それはまた別の機会に。)

「江戸城無血開城」が実現した要因として、旧幕府側要人の交渉努力、旧幕府側の戦意の低さ、外国からの干渉、などが言及されることがある。また当時も世界最大級だった大都市・江戸が新政府側が入手できるメリットもあったであろう。しかし、ここでは敢えて「江戸城の存在」を挙げたい。

江戸城というと今の皇居か、と思われるかもしれない。実際には、江戸城は現在の皇居を中心としつつ、もっと広い。神田川は江戸城の北側の外堀をなしている。西の飯田橋、市ヶ谷、四ツ谷、赤坂にも外堀の遺構が確認できる。これらはすべて江戸城を守る堀の痕跡である。現在の「外堀通り」をぐるっと一周とイメージすればが大きくは違わない。江戸城の外郭の総延長は約14キロメートルに及び、秀吉当時の大坂城の総構の外周は約7.8キロメートルである。江戸城の外郭を含めた面積は約2,082ヘクタールに及び、同大阪城は約452ヘクタールであるため、その広さが再認識できる。

江戸城は当時、日本最大の城郭であった。江戸時代の城郭が幕末から明治初期の大砲等の兵器を前にしても一定の有効性を保っていたことは、西南戦争の攻防戦の際、熊本城が薩軍の包囲に耐え抜いたことでも実証されている。

江戸城の強みは巨大な外郭だけではない。東にある隅田川が外郭の一部をなしており、また道三堀から日本橋川に通じるルートがあり、海からの補給路が確保しやすい。北関東や東北からの海路からの補給が続けば相当期間の包囲に耐えられることが想像できる。

また江戸城の防御は、現在の町並みからも想像できる。東京の道路は碁盤の目ではなく、入り組んでいたり曲がっていたりするので、初めての者にはやや分かりにくい。外敵の侵入を防ぐ工夫の痕跡である。

戊辰戦争当時の新政府軍側も、交渉の中で無血開城の妥結点を探る過程で、上記の江戸城の防衛力を充分に計算に入れ、総攻撃時の人的・物的な被害を天秤に乗せた上で判断に及んだのではないだろうか。

結局、江戸城で攻城戦が行われることはなかった。しかし、現在の東京の街の基礎を生み出し、そして戊辰戦争の戦火から守った。江戸城にはそんな横顔がありそうだ。

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