江戸城の話(その2)ー江戸城と藤堂高虎

江戸城建設には多くの偉人たちが関わっている。よく天海僧正が語られるが、ここでは藤堂高虎を挙げたい。

関ヶ原の戦い以降の天下普請として、江戸城の建設には全国の大名が動員された。当時の日本の築城技術は、西日本にあった。必然的に石垣などの技術を要する普請は主に西日本の大名が動員された。中でも和歌山城や宇和島城の築城で既に実績を残していた藤堂高虎が江戸城の縄張りに携わった。いわば「総合設計」である。

江戸城は武蔵野台地の東端に位置している。関東平野は広いが、一方で東京の街は坂道が多いことが分かる。江戸城は、この武蔵野台地の坂道をふんだんに活かした、巧妙な縄張りとなっている。

藤堂高虎は、近江国生まれで、7人の主君に支えた。順に、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、豊臣秀長、豊臣秀吉、徳川家康、である。江戸時代以降の「倫理観(?)」からは変節者と捉えられる節があったようだが(※)、戦国時代は実力社会であり、ごく自然な処世だったとも言われている。むしろ実力により、各主君にそれなりに処遇されてきたことを考えると、もっと評価されるべきではないだろうか。

(※)後に戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いの際、津藩は旧幕府側劣勢に傾くと真っ先に新政府側へ寝返り、旧幕府側から「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と罵られたという。本件が藤堂高虎の「変節」の評価を決定付けた、という説もある。

東京の街の発展は、江戸城の基礎作りに貢献した、藤堂高虎によるところが大きいのではないだろうか。

藤堂高虎は江戸城改築の功もあり、慶長13年(1608年)に伊勢・伊賀22万石へ加増・転封されている。この転封は、徳川方による大坂城包囲網の一環でもあり、藤堂高虎は領内の安濃津城や伊賀上野城の改築も行う。

話が変わるが、「上野」という地名の由来は、藤堂高虎が上記の伊賀上野に地形が似ていることから命名されたという説も語られている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です