歌文化とカラオケ

「ひふみんアイ」なる動画がyoutubeで配信されている。

2017年にプロ棋士を「引退」したものの、引退どころか活躍の幅を広げている、将棋の加藤一二三九段。決して上手とは思えない歌唱力でありながら、その特異なキャラクター性を活かし、かの「PPAP」の古坂大魔王の協力を得て軽快なメロディーとリズムで子供達とダンスする有様は、印象深い。

ひふみんアイ公式動画

歌は、人類にとって長い歴史を持つ文化的遺産である。その中でカラオケは、歌文化の一層の大衆化を促した、日本が誇る金字塔と考えている。筆者住まいの近隣にある、根津の居酒屋では、毎晩カラオケ好きの客が集い、カラオケに興じている。

歌の持つ、メロディー、リズム、韻律、作詞の含意、そして想像を掻き立ててくれる創作者の求めたイメージの世界。いずれも私たちを非日常の世界へ誘ってくれるとともに、意識して覚える記憶以上の、言葉にし難い「痕跡」を刻み込む。

その昔、人には意識がなく、「神々の声が聞こえた」とする「二分心」仮説が唱えられたことがある。トロイ戦争を描いた叙事詩「イーリアス」では、「意識」や意識を前提とした語彙はなく、人間は各自の「うちなる神々の声」に従って生きていたとされる。約3,000年前、人間は言語を見出し、言語から生じた自己の「意識」を獲得するにつれて、文明を加速度的に発達させたが、一方で神々の声が聞こえなくなっていったという。(ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』1976年)



「二分心」の仮説について筆者なりに考えを進めると、人間は「神々の記憶」を求め、あるいは「非日常への誘い」に抗しきれず、歌を歌う、祭りを行う、手を合わせて拝む、などの行為を行うのではないか、と想像の翼をはためかせてしまう。

歌は、各文明、文化の中で、一定の規則を作り、時には壊しながら人と共に歩んできた。中国の古詩、漢詩、欧州の吟遊詩人の活動、グレゴリウス聖歌、クラッシック音楽など、日本でも和歌や俳句、後に続く民謡、謡曲、歌謡などである。

「二分心」の仮説は、あくまで仮説であり、いまだ実証されている領域には至っていない。しかし、筆者は、実生活の中で歌に触れてきた身としては、何だか妙に納得感のある説明だな、と思ってしまう。

ともかくも、人類の歴史と歩みを共にしながら、歌文化は「カラオケ」へと至った。一定の訓練を経た者でなくても、周囲を楽しませることができ、そうでなくても、ハードル低く自己陶酔に浸ることができる環境を実現したのである。

カラオケによる大衆化は、「日常化」であり、歌文化が育んできた非日常性の喪失と捉える指摘があるかもしれない。だが、歌文化のここまでの大衆化をもたらした原動力は、人々の「非日常への憧れ」ではなかっただろうか。筆者もかかる仮説に想いを馳せながら、今日も歌に興じるのである。