上野恩賜公園~寛永寺黒門跡

上野恩賜公園の広小路側入口である。

現在の上野恩賜公園は、その大半がかつて寛永寺境内だった。慶応4年5月15日(1868年7月4日)、上野戦争の戦火により寛永寺の主要な伽藍は失われ、境内の用地は新政府に没収された。その後広大な境内地は、公園とされた。

<寛永寺の黒門跡>

寛永寺黒門、すなわちかつての寛永寺の総門があったのは、広小路側入口から桜並木道に入る手前の場所である。左手に、江戸時代天明期の文人・蜀山人(大田南畝)の碑がある。黒門にまつわる歌を残している。

現在公園の大噴水のある付近には、かつては寛永寺の根本中堂があった。すなわち、公園の広小路入口から大噴水に至る桜の並木路は、寛永寺の表参道であった。

参道は坂道が続いていることが分かる。

 

黒門跡地を遠目に、公園入口まで下がった写真。この辺りからも坂道の傾斜が続いていることが分かる。写真右手には木の陰に階段があり、かつては「山王台」と呼ばれた小高い場所へと続いている。黒門は西側に「山王台」を控えた隘路となっている参道の入口に設けられていた。

上野戦争の激戦地となった「黒門口の戦い」では、上野広小路方面から黒門前に押し寄せた新政府軍を、山王台の上から彰義隊が射撃し応戦した。

<円通寺>

荒川区の円通寺には、当時の黒門が現存している。

円通寺は、彰義隊戦死者の遺骸が放置されていたところ、当時の住職が火葬により弔い、後に新政府より正式に供養を行うことが許された。後に明治40年(1907年)、帝室博物館より下賜された。

近づくと、上野戦争時の銃痕が生々しく残されているのが分かる。銃痕は新政府側の射撃によるものであるので、彰義隊側も同様に当該黒門内側より応射していたのであろう。激しい銃撃戦の痕跡である。

  

 

<彰義隊の墓>

山王台の上には、彰義隊の墓が佇んでいる。火葬の後、円通寺に葬られているので、正確には墓というより記念碑と呼ぶべきか。

<西郷隆盛像>

山王台の彰義隊の墓の手前に、あの西郷隆盛像が立てられている。

 <アクセス>

 

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