上野の山へ至る道・谷中の三崎坂

谷中の名前は、上野の山と本郷台に挟まれた「谷間」から名が付いた、と言われる。実際に谷中を歩いてみると、単純に挟まれた場所ではなく、そこは坂の緩急がバラエティーに富んでおり、興味を惹く地形である。

東京メトロ千代田線・千駄木駅を下車し、不忍通りに面した団子坂下から、東の方角に進むと、上野の山へ至る坂道がある。坂道は、少しづづ傾斜を登る進行方向に向かって概ねやや右に迂回しながら、やがて上野の山へ到達する。上野の山へ向かう途中の登り坂は、「三崎坂(さんさきざか)」と呼ばれる。現在の台東区・谷中の中心部を東西に横切る坂道である。

三崎坂沿いの寺院には、上野戦争の弾痕が残されている。

こちらは谷中・三崎坂の谷中小学校近くにある日蓮宗・長久寺。

  

上野戦争の際には、新政府軍の主力部隊(薩摩藩兵中心)は、寛永寺の黒門口から攻撃を行った。新政府軍の別動隊(長州藩兵中心)は、団子坂下から三崎坂を経由して天王寺及び寛永寺谷中門(裏門)方面へ目掛けて進軍した。彰義隊は、三崎坂道中の寺院、民家で待ち伏せを行い、進軍してくる新政府軍に抗戦した。谷中は江戸時代に入って形成された寺町である。幕末には多数の寺院があった。そしてそのいくつかが現在まで残されている。



長久寺の弾痕は、上記の戦闘の際にできたものである。上野戦争の戦火で灰燼に帰した寺院も多かったため、当時は幾多の銃弾が飛び交ったであろう。

新政府軍主力が黒門口から寛永寺境内へ攻撃開始後、新政府軍別動隊は、谷中天王寺を占拠した。

進軍ルートについて、天王寺制圧の後、寛永寺の背後を衝くために、三崎坂のルートを選択したのでは、と推測する。現在の根津交差点(不忍通りと言問通りの交差点)から進軍した方が寛永寺へはやや距離が短いように見えるが、当時は寛永寺の敷地は上野桜木あたりまで張り出しており、天王寺敷地まで隣接していた。付近の寺町を含めて彰義隊が占拠していただろうから、挟み撃ちに遭う危険もあり、彰義隊を各個撃破できる三崎坂ルートを選択するルートに軍配が上がる感がある。

ルート選択の理由としてもう一点挙げるならば、「坂道の勾配」ではないだろうか。

こちらは根津交差点から上野の山へ続く坂道である。根津から谷中に入る辺り、写真で信号のある所は、丁度根津と谷中の境界だが、上野桜木へ向かう坂の勾配が急になっていることが分かる。余談だがここは善光寺坂と呼ばれ、かつてあった寺の名前が坂に残っているものである。

 

次に団子坂下から上野の山へ続く坂道、すなわち三崎坂。根津からのルートと比較すると、幾分坂の勾配が穏やかに見える。

 

上野戦争当時は、欧州からの大砲やライフル銃など西洋式の近代化武器が浸透していった時代とはいえ、当然ながら徒歩により進軍を行った。しかも、火事が江戸の街に広がることを抑えるため、わざわざ雨天の日を選んで上野の山の彰義隊の討伐作戦が行われたという。道路が舗装されていない時代であるので、雨天時の寛永寺に至る坂道はぬかるんでいたに違いない。新政府軍は、移動距離は長いものの、やや坂が緩やかで行軍ハードルの低い三崎坂のルートを選んだのではないか、と考えてしまう。

攻撃側の進軍ルート選択の自由度を狭めさせることは、守備側のメリットとなる。上野の山の寛永寺は、ここで眺めた谷中の「坂」にも守られていた、と言えないだろうか。